寺報『極楽寺だより』で連載している「お寺のギーカイヨーゴ」。
  お寺に親しんでいただくために、日頃聞きなれないお寺で使われる言葉を紹介
  するコーナーです。
  今回は、ボリュームのある文章となりましたので、『オシエノカケラ』に掲載
  しました。




「布施」

2022(令和4)年4月号 




お布施というと、「お寺や僧侶に納めるお金」と思われている方も多いかと思います。これも「財施」といって布施の一つではありますが、本来は「他に与えること」「施し」「喜捨」の意味で、仏教の重要な実践行為のことをいいます。ですから、金品を施すことだけが布施ではありません。

布施を、インドのサンスクリット語ではダーナと言います。「旦那」という言葉の語源としても知られ、また医療目的の臓器提供者「ドナー」の語源でもあります(これらは「施し」という本来の意味が、「施しをする人」に転じたことによるものだと思われます)。

真宗僧侶で宗教学者の釈徹宗先生は、布施とは「シェア(分配)のトレーニング」(『仏教ではこう考える』釈徹宗)だと表現されています。仏教はお釈迦様の頃から、持ち物を分けあうことを重要視してきました。それは、自分の持ち物を他者に施したり分配することで、執着から離れ、自分の身心を整えるために行うのです。

私たちは、生まれた時から掴むこと、得ること、握ることばかり教えられてきたのではないでしょうか。そのことで、握りしめた手を離すことができずに、かえって自分が苦しんでいるということはありませんか。欲望、夢や理想、プライド、怒り、嫉妬、過去への囚われ等々…。それらは、生きる力になることもあります。しかし、手に入れられない時、手放さざるを得なくなった時には、執着が強いほど生きづらさは増していきます。ものの見方や考え方を変えたり、肩の力を抜く。現状を素直に受け容れることで、世界は違って見えてくる。その為にも、手を離すトレーニングが重要なのだと仏教では考えるのです。そこから、「見返りを求めるものは(新たな執着を生むものは)、布施として認められない」といった内容やプロセスをも重視していき、次第に布施の理念は高度に展開していきます。

冒頭に、布施の本来の意味として「喜捨」という言葉をあげました。喜んで捨てるというのは、面白い表現だと思いませんか。この場合の「喜」とは「他者を幸福にする喜び」であり、「捨」とは「すべてのとらわれを捨てる」ことで、仏様の量りしれない利他の心をあらわします。その心を実現しようとする歩みの中で、「してあげた」から「させていただいて、ありがとう」と方向転換することが、仏教の目指すところだと釈先生は指摘されます。(『キッパリ生きる!仏教生活』釈徹宗)

とはいえ、実践するとなるとなかなか難しいですよね。やっぱり、「あれだけしてやったのに!」という思いは離れ難い…。何より、「あなたのために」という思いが押しつけになれば、相手を苦しめることもあります。でも、出来なさに気づかされることって、とても大切です。立ち止まり、自分の行為を振り返るブレーキになりますから。そのことを繰り返し、自分の生き方を形づけるトレーニングが布施の実践なのです。

また布施は、金品だけではありません。「無財の七施」という形もあります。

和顔施 和やかな表情で人に接する

◇ 心施  他者のために心配りする

◇ 言辞施 言葉を大切に使って、他者と接する

◇ 眼施  暖かいまなざし

◇ 身施  人のために奉仕する

◇ 牀座施 場所や席や地位をゆずる

◇ 房舎施 風や雨露をしのぐ所を与える

他にも、ただ相手の言葉を聴いたり、何もしないで傍にいるだけであったり、相手の痛いところに手をふれたり、無財で行える布施行はたくさんありそうです。

 



ではここで、ご門徒からの質問コーナーへと、移らせていただきます。

【質問】お寺に包む封筒には、すべて「御布施」と書いて良いのですか?

【答え】基本的には、「御布施」で結構です。但し、法座にお参りする時には「御法礼」と書く風習も、根付いています。

 
 

ついでに言えば、葬儀やお通夜のお供えには、「御仏前」と書くのが浄土真宗のしきたりとなっています。「御霊前」と書くのは、他の宗派のしきたりですので、お間違えのないようにしてくださいね。

 

さて、ここまで読まれた方の中で、こんな感想をお持ちになられた方もあるかもしれません。「何だかんだ理屈をつけても、結局中身はお金。お寺に払う料金でしかないじゃないか」と…。しかし形は一緒でも、それをどう受け止めるかで、その後の展開が大きく変わるということがあるのです。

こんな話を、ご存知でしょうか。ある保育所では、一つの問題を抱えていました。親のお迎えが遅くなることがあるのです。親が来るまで、保育士さんが一人居残らなくてはなりません。この問題を解決するために、遅刻する親に対し「罰金」をとることにしました。
 すると、予想に反して遅れる親が増えたというのです。それまで後ろめたさを感じていたのが、お金を払うことでサービスとしての「料金」へと感覚が変わり、痛みを感じなくなったのがその理由だとか。(『あなたはそれをお金で買いますか』マイケル・サンデル)
 「罰金」には、やめて欲しいという願いが込められています。しかし、それを「料金」とした時、願いは軽々しく扱われることになります。お金を払えばいいという考えは、お金さえ貰えればいいという価値観の人には有効かもしれませんが、そうでない人には迷惑で傲慢な態度でしかありません。

 「御布施」と「料金」は、まったく違います。「御布施」という言葉に込められた、先達の歩みや心を受けとめることが、人生をより豊かなものにしていくのだと教えられるのです。■