釣鐘のことです。時計が身近でなかった昔は、朝夕の時間を告げるものとして、人々の生活に大きな役割を果たしてきました。但しそれは、あくまでも二次的な役割。梵鐘の「梵」とはインドのサンスクリット語のBrahmaの音訳で、清浄・清らかという意味ですから、あたりの空気を清め、人々に功徳をもたらすものとしてお寺に鐘が設置され、撞かれてきたのです。
梵鐘を撞くと、音だけではなく響きが身体に伝わってきます。そして、そこに余韻があることが感じられます。その響きや余韻は、心を鎮めなければ味わえません。近頃の都会では、「お寺の鐘がうるさい」という苦情が寄せられることもあるそうですが、そのような精神状態では感じ取ることができないものです。そして心が鎮まると、世界の見え方や感じ方が変わってきます。それはとても大きな功徳だと、私には思えるのです。毎年、大晦日に撞く「除夜の鐘」も、「108の煩悩を払うため」と言われていますが、煩い悩むものを追いかけ続けている私の姿を、心を鎮めることで明らかにし、「自分の生き方を見つめ直すご縁」としていただいた方が、より豊かな新年を迎えることができると思うのですが、いかがでしょうか。
また梵鐘には、法座が始まることを知らせるという役割もあります。「ごーん」と鳴り響く鐘の音を、「阿弥陀様から与えられている慈しみと恵みを聞けよ。ご恩≠聞く法座が始まるぞ」という私への呼び声だと受け止め、生活に追われる中に足を止め、心を鎮めて、お寺に参る。そんな生活を送られた先輩方もおられたのです。「ごーん」と「ご恩」って、オヤジギャグみたいだと思われる人もあるかもしれませんが、そんな受け止めを小ばかにする感覚よりも、「すべての事柄は、この私を導き育てるはたらきだ」と受け止める感性の方が、よっぽど豊かだと思います。
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