2024(令和6)年4月号 







 

ピンチです!ヤバい状況です。
今年の一月に勤めました御正忌報恩講では、四年ぶりにお斎を復活しました。台所のお手伝いの負担を考え、今回からお昼だけに時間を限定したのですが、何と席に着かれたのは僅かな方々…。お参り自体も減少傾向にはありますが、「お昼は食べてきました」とおっしゃる方も多くあり、とても残念でした。このままでは、お斎文化がなくなってしまいます。これは、かなりヤバい状況だと危機感を持っているのです。
お斎とは、法事や法要など、仏事の際の食事のことを表します。元々は修行僧が決められた時間にとる食事のことでしたが、後に今の意味に変わりました。但し、単に「お寺で食べる食事」ではありません。お斎には、もっと大切な意味があるのです。特に、現代社会が失っているものを、浮き彫りにし、大切なことを確認するものとして、重要な役割を持っていると私は考えています。では、その役割とは何か。共に考えてみたいと思います。



@ つながりを実感する場


 
【共に食す場として】

 お斎の場は、人々が食を共にするという「共食」の場です。食文化研究者である石毛直道氏は「人が人たる根本の特徴の一つが共食である」と述べておられます。「同じ釜の飯を食った仲」という言葉がありますが、私たち人間は「同じものを、共に食す」ことで、つながりを深めてきました。また、供えられたものを食すことで、信仰対象(神様や仏様)とつながりを深めるという儀礼は、世界中の宗教において重要な意味を持っています。「お寺で、共に、食す」ことは、私たちが思っている以上に、重要なはたらきがあるのです。


【持ち寄ったものを食す】
 お斎は、昔から持ち寄ったもので作られていました。昔は、日ごろお寺にお供えされたお仏飯米や、ご門徒が持ち寄られた食材によるものだったのです。今回のお斎の大根も、ご門徒が育てられたもの。お斎とは、みんなで持ち寄り、みんなで分け合う場なのです。ですから、お斎料を包む習慣は、食事への対価ではありません。持ち寄りの志なのです。
 本来、料理を分け合う行為は、共同生活をおくる人間の特徴であり、信頼関係を深める手段でした。ところが、便利さ快適さを求める現代社会では、自分の好きなものを、自分の好きなように、好きなだけ食べることが当たり前となり、人のつながりがどんどん希薄になっています。それどころか、いのちをいただいているという感覚さえも、薄くなっています。動物も自然も、人間さえも商品化している時代ですから。


【語り合う場として】
現在の本願寺の基礎を築かれた、室町時代の蓮如上人という方は、常々「物をいえ」「信不信、ともに、ただ、物をいえ」(『蓮如上人聞書』)とおっしゃっておられたそうです。仏法の味わいを、語り合うことで深め、自分勝手な受け止めを改めていく。そのためにも平座となり、上下なく語り合うことを薦められました。お斎の場は、そんな仏法を語り合う場として、重要なはたらきをしていたのです。
だからこそ、人間本来の有り様を、いのちのつながりを、お寺のお斎という場を通して取り戻していかねばと思うのです。私たちの先輩方が、共に持ち寄り、共に食し、共に語り合うことで、人と人とのつながり、自然とのつながり、阿弥陀様とのつながりを確認してきたように。


 







 
A つつしみを確認する場


「斎」の文字には「つつしむ」の意味があります。「つつしむ」とは、過ちや軽はずみな行為のないように気をつけることであり、 度を過ごさないよう控えめにするということ。つまり、自分の節度を守るためにブレーキをかけるような行為でしょう。ところが、現代社会に生きる私たちは、「つつしむ」ことを忘れてはいないでしょうか。

 本願寺の大谷嬉子前々御裏方は、「おときのこころ」を次のように示されています。

「私ども、浄土真宗のみ教えをいただく者は、厳しい戒律に生きるということはありませんが、毎月の宗祖聖人のご命日をはじめとして報恩講のご法要の折、また永代経法要の時、お精進をする習慣になっています。/常々どうしても殺生をせずには生きられない私を、あらためて振り返れば、そのようなわたしであるからこそ、み仏さまのご本願に救われる身であることを、聖人を、また親しい故人を偲びながら、喜ぶことができると思います。また、/遠い祖先と、同じ念仏に生きているという念いを深めることができるでありましょう。そして、そのお斎が継承されて、また未来を生きるであろう子孫にも、その念いが伝わってほしいと思います」(『慈光のなかで』)

 殺生をせずには生きられない、自分自身の姿と向き合う。そんな私を思い、はたらいてくださっている阿弥陀様がおられることの有難さを念う。そして、共に阿弥陀様の温もりの中にある、亡き人たちの歴史に出会っていく。
 忙しく慌ただしい時代だからこそ、せめて御正忌くらい、精進料理であるお斎をいただく。お斎の場を「つつしみ」を確認するご縁とし、ブレーキをかけ立ち止まり、自分自身を振り返る。それは、現代社会が失ったとても大きなものに、出会い直すことになるのです。

 




 





B 私が待ち望まれていることを感じる場


 
 

どんなにお斎を準備しても、食べてくださる方がなかったら、それは無駄になってしまいます。それは料理だけではなく、準備された方々の思いもはたらきも無駄になるのです。しかし、それを逆から考えると、お斎の席に着く方が増えるほど、準備する側の喜びも大きくなるといえるでしょう。
つまり、私が来ることを、待ち望み、喜んでくださる方がある。そして私が、お斎を食べることで、笑顔になる人がいるということなのです。私が一歩を踏み出すことで、そこに温もりと喜びが生まれる。これって、とても嬉しいことではないですか。この喜びは、人間にとって存在に関わるほどの重要なものではないかと思うのです。なぜなら、これまた逆から考えてみてください。「あなたなんか、来て欲しくない」「あなたには、ここに居場所はない」と言われたとしたら…。これは、自分の存在を否定されるほど、つらいことではないでしょうか。
 私たちは、お寺という場から待ち望まれているのです。それは、お斎の準備をされる方々だけではありません。阿弥陀様から、親鸞聖人から、そして私たちの先祖や先達から、私がお寺に参り、手を合わせ、お斎をいただくことを、待ち望まれているのです。
そんな豊かで大きな世界の中に、今私が生かされていることを実感する場として、お斎はとても重要なものだと思います。



C まとめ
  
 

以上、お斎の持つ重要な役割を、確認してきました。この大切な心を伝えるお斎という文化を、共に支えていただきたいと、強く願っている次第です。私たちに届けられたこの歩みと歴史を、次の世代に伝えるためにも、どうかお力をお貸しください。■


 


@ お斎は、つながり(人、いのち、阿弥陀様、そして過去と未来)を  実感する場です。
A お斎は、つつしみを確認し、自分を振り返る場です。
B お斎は、私が待ち望まれていることを感じる場です。