
|


|
2025(令和7)年6月号
|
今年二月に行った健康診断で肺に影が見つかり、検査の結果、癌であることを告知されました。癌と聞くと驚かれる方もあるかもしれませんが、今や研究が進み良い薬があるので、元気になられる方も多いようです。もちろん、厳しい結果が待っているかもしれません。何とも先が見えないのが、現状です。
ただ、せっかくこんなご縁をいただいたので、ここから見えてくるもの、知らされたことを、これから連載として書き連ねてみようと思います。そこから、私が出遇うことができた教えの「カケラ」が、伝わればうれしいことです。
|

|
さて、癌を患った同級生から「癌の告知を受けたら、冗談じゃなく『ガーン!』と思うぞ」と忠告されたことがあります。私もきっと『ガーン!』と思うのではないかと考えていたのですが、意外や冷静に受け止めている自分がいました。
考えてみれば、それは次男の病気という経験があったからだと思います。今では元気に過ごしていますが、彼は血液の病気で二度の骨髄移植を受けました。先が見えず、不安ばかりが募る中で「一日一日、丁寧に歩むしかない」と、家族みんなで支え合いながら過ごした日々が、私を育ててくれていたのでしょう。
|

|
そしてもう一人、私を育ててくださった「恩人」ともいうべき人がいます。その人の話をさせてください。
以前、あるご住職が心臓発作の影響で、約二年間意識を失われた後に、亡くなられました。私が大学時代にお世話になった先輩です。坊守さんも私の先輩で、お二人にはよくしていただいたので、入院されている時には、近くに行く度にお見舞いに伺っていました。
坊守さんは毎日病院に通われ、愛おしく心を込めて、大切に、大切に手足のマッサージをされます。「一日、一日よね」とつぶやきながら。その姿を見て、私はとても感動したのです。「あぁ、意識があろうがなかろうが、今お二人は共に生きておられる。今日一日はお二人にとって、かけがえのない人生の一日なのだ」と感じられたからです。
それは、ただ美しいだけのものではないのでしょう。心の内には、様々な思いがあられたのだろうと思います。
それも含めて、私は勇気をいただいたのです。次男が苦しんでいた、厳しい時期でした。結局「一日一日」を丁寧に過ごすしかないのだと、改めて教えられました。
確認しておきますが、「一日を丁寧に生きる」とは、目先のことを優先するというものではありません。近頃は「人間死んだら終わりだから、自分の好きなこと、やりたいことをした方がいい」と、自己中心的なふるまいで、周囲に迷惑をかけ、次の世代に悪影響を残すような生き方をする人も増えています。
そうではなくて、人生において大切なこととは何かを問いながら、どんな態度で人生を生きるべきかを訪ねながら、今何をすべきかを考える。目先の欲望や、将来の不安に執着することを慎む。大きな時間の中に身を置きながらも、今を精一杯生きるとでも言えば良いのでしょうか。
|

|
さて、後日ある先輩住職に、「この前、お見舞いに行ってきましたよ」と声をかけました。その方も、お二人のことをご存じだったからです。するとそのご住職は、冗談交じりでこう言われました。
「ああなったら、もう人間終わりやなぁ」
衝撃的な言葉でした。軽い気持ちの冗談だとしても、まさかそんな言葉を聞くとは思いませんでしたから。その時は何とかやり過ごしましたが、彼の言葉は後々まで心に残り、私の心をえぐり続けました。お二人の人生を、そして私たち家族の歩みを、否定された気がしたからです。
しかし時間が経過して冷静になった頃、改めて考えたのです。今の時代、そんな風に思っている人の方が、実は多いのではないか。そんな世の中の「当たり前」が、彼にあのような言葉を語らせたのではないかと。
何より、私自身が厳しい環境に身を置いていたからこそ、あの言葉にショックを受けたわけです。もしそうでなかったら軽く聞き流していたのかもしれません。
ならば、自分に引き寄せて考えてみたらどうなのか。苦しみ、悩みを抱えている人に対して、私は配慮してきたのか。「みんなも言っているから」という軽い気持ちで、無神経に人を傷つける言葉を発してきたのではなかったか。被害者の立場から憤慨するだけではなく、加害者の立場から自らを問うことも、とても大切な営みなのではないかと気づかされたのです。
この時以来、世の中の多数が「当たり前」だと思っていることに対し、「本当にそうなのか」と意識的に疑うことを心掛けるようになりました。
同時に、私は「ああなっても、人間は終わりではない」と言い切れる道を歩みたいと、強く思うようにもなりました。どんな状況にある人でも尊ぶことができる拠り所を求めていこうと。
そもそも、私がいただいてきたお念仏の教えとは、世の中の「当たり前」という枠組みを揺さぶることで、豊かなものの見方を示してくださる世界でした。また、どんな私をも尊んでくださる拠り所なのだと、味わってきました。
同じお念仏の教えをいただきながら、一方では「終わりだ」という人がいて、もう一方では「そうではない」といわれる方がある。ならばこの時こそ、もう一度お念仏のみ教えをいただき直し、これまで私を導いてくださった方々の言葉を味わい直していこう。深めていこう。そんなご縁としたのです。
今私が、自分の状況に冷静に向き合うことができるのは、そんな歩みを通して出遇えた世界に支えられているからだと、はっきりと言い切ることができます。
「ああなったら、人間終わりやなぁ」と思っている人が「ああなった」とき、「オレはもう終わりだ」と思ってしまうのでしょう。これはかなり辛いことだと思います。これまでの自分の生き方がそのまま、今の自分を否定することになる。過去の自分に、現在の自分が蔑まれていくわけですから。
でも、「ああなっても、人間は終わりではない」と、どんな状況にある人をも尊ぶことができる拠り所に出遇えたならば、どんな状況にある私をも尊ぶことができるのだと、今まさに教えられています。
そして、この歩みを深めるご縁をくださったのは、「ああなったら、人間終わりやなぁ」とつぶやかれたあの先輩住職なのでしょう。まさしく「恩人」ですよね。もちろん、ちょっぴり嫌味は入っていますが。
|
|
とはいえ、これから弱気になることも、愚痴が出ることもあるはず。だって、私は肉体的な痛みやつらさが、とっても苦手なのです。だからくれぐれも、私が立派で強い人間だとは思わないでください。かなり、ヘタレなのです。私が今、冷静でいられるのは、生と死を超えて、確かに支えてくださる世界と出遇えたから。支えられているという実感があるからです。その世界を「南無阿弥陀仏の世界」というのだと、私は教えられてきました。■
(二〇二五年四月十一日 入院六日目)
※ 現在は、とりあえず退院し、薬を飲みながら通院する生活を送っています。
今のところ、自覚症状も副作用もなく、普通に過ごしています
|

|
|