2010(平成22)年1月   




 「私の願いが叶えば、私は幸せになれる」。それが、私たちの一般的な考え方です。お正月にはたくさんの人が初詣に行かれ、お願いされるのは、それをよく表している風景だと言えるでしょう。
 
 しかし、阿弥陀如来という仏様は、私の願いを適えてくれる仏様ではありません。
 そうではなくて、
「あなたの願いが、本当にあなたを幸せにするのですか?」
「あなたは、あなたの願いに縛られて、苦しんでいるのではないですか?」
と、私たち自身を問い直して下さる仏様なのです。

 

うちの子どもたちの現在の願いは、「一日中テレビゲームをしたい」「マンガを読みたい」ということだそうです。だから、「もう勉強も終わったし、何をしても僕の自由じゃないか!」と言います。
 でも、彼らを見ていたら、僕にはとても「自由」だとは思えません。ゲームって、私たちが遊ぶものでしょ?でも、彼らを見ていたら、ゲームにもて遊ばれているようにしか見えないんですよね。ゲームに雁字搦めにしばられて、大切なことさえわからなくなるほど、もて遊ばれている。

 でも、これは、彼らだけの問題かというと、決してそうではなくて、私自身を含めてこの世の中全体が、同じような状態に陥っているのではないかという気がするのです。

賭け事に雁字搦めにしばられている人もいれば、テレビに縛られている人もいれば、お酒に縛られている人もいます。お金に縛られている人もいれば、携帯電話に縛られている人もいる。
 私なんかは、便利さに縛られて、振り回されて、毎日毎日仕事を増やしては苦しんでいます。
 どれも、人生を豊かにするための道具であるはずなのに、縛られることで、人生を貧しくしている。こんな生き方を、本当に「自由」というのでしょうか。

 

仏教では、このような有り様を、「貪欲」に縛られているといいます。三大煩悩のひとつで、過剰な欲望のことです。煩悩に飲み込まれ、自分を見失う状態です。
 阿弥陀様という仏様は、
「あなたの願いが、本当にあなたを幸せにするのですか?」
「あなたは、あなたの願いに縛られて、苦しんでいるのではないですか?」
と、私たち自身を問い直して下さる仏様なのです。

 

  

昨年末に、京都の仏具屋さんの若社長が挨拶周りで立寄られました。そして、たまたま今月のこの言葉を見て、「そうですね。本当に、そうですね。」と何度もうなずかれるのです。
 その若社長は、三十代後半。よくお寺にお聴聞されますし、研修会にもよく出られる。ちょうど、うちに来られる前にその若社長、自死・自殺問題の研修会に出られたそうなのです。 

自ら、命を絶たれる方というのは、優しい人が多いそうなんですね。
「こんなことを言ったら、家族に迷惑がかかる」
「こんなことをしたら、みんなに迷惑がかかる」

そうやって、自分の願いに縛られることで、自分を追い込んでしまい、追い詰めてしまう。だから、優しい人が多いそうなんです。

しかし、そんな人たちは、自分の願いに縛られるために、
「それでも、あなたに生きて欲しい」と思っている者がここにいるよ、
「あなたに死んで欲しくない」と思っている者がここにいるよ、
という声が届かない。

 その社長は、
「自分の願いはよくわかるけれども、かけられた願いにはなかなか気づけない。本当にそうですね。」
と、おっしゃっておられました。

 私たちは、どんな願いに生きているのでしょう。
 そして、私たちは、どんな願いがかけられている身なのでしょう。

 かけられている願いを味わい、自らの願いを見つめ直す。そこに、豊かな生き方が生まれてくるのではないかと、教えられるのです。■