2011(平成23)年3月   





この言葉を見て、「そんな馬鹿なことがあるわけないだろう。耳は単なる身体の一器官ではないか。」と思われた方はありませんか。
  私も、仏法に出遇うことがなかったら、そんな思いで、この言葉を見ていたに違いありません。現代社会に生きる私たちは、頭だけでものを考えて、身体の言葉を聞くことを忘れているのではないかと考えさせられるのです。

 

ヨーロッパで、国と国との大戦争が起こって本格的な大量殺りくが起こるようになったのは、十七世紀くらいですが、それは地図が作られはじめた時期と重なるそうです。その前は王様が丘の上に立ったら見渡す限りが自分の土地で、いろんな農作物があって、「ああ、すごい」と思えた。ところがそれを地図で見ると、「なんだ、これだけか」「隣の国の領地はこれだけある」と、頭の中でどんどん広がっていく。身体を忘れて、頭だけでものを考えることで、欲望に歯止めが効かなくなる。
 私たちは、攻撃性というものは身体にあって理性がそれを抑えていると思いがちですが実は逆で、脳がバーチャルに攻撃性を増大させ、身体が「そりゃ、無理だろう」と抑制するんだという説もあるそうです。

 

考えてみれば、一生かかっても使えないようなお金を儲けて、それでも満足できずに、もっともっとお金を儲けようとする人たちのマネーゲームが、地に足をつけて生きている人たちの生活を振り回している時代です。まさしく身体を忘れて、頭だけで生きている時代だと言えるでしょう。
 身体の声に耳を傾けてみる時に、頭だけでものを見ている虚仮の姿が見えてくるのかもしれません。■