2011(平成23)年5月   


 



 この言葉には、かなりの反響がありました。「いい言葉ですね。本当ですね。」と言われるたびに、「いえ、私自身が痛感しているところです。」と、赤面している次第です。

 

大阪常見寺の故利井明弘先生が、ある聞法会で、
「近頃の若者は、目上の人やお年寄りを敬う心がありません。昔と何が変わったのでしょうか。どうすれば若者が、目上の人やお年寄りを敬うようになるか、お経に何か答えが説いてありませんか?」
とたずねられ、こう答えられたそうです。

「『仏説無量寿経』に誓われてある、四十八願の第三十七番目の「作礼致敬」の願に説かれています。ここのお言葉を一言で言えば、その敬われなければならぬ人たちが、一体何を敬っているかということが問題なのです。敬いの心を持たない人が、敬われるはずはないのです。
 

私たちはそれぞれの家庭で、何を大切にし、何を敬って生きてきたのでしょう。敬いのない人生は自分中心で、仰ぐものを持たないから、自分を振り返ることもありません。この世に生命を恵まれて、良き師、良き友に遇えないことほど不幸なことはありません。この良き人たちを通して、私たちは正しい教えに遇うのです。そこに敬わなければならない、この世で一番大切なものをうけついでゆくのです。」
              
(『でや、うまいやろ』―「常見寺だより」法話― 利井明弘)
 

現代社会は、機能やスピードを追い求め、思慮深さや経験というものを排除してきました。また、物質的な豊かさやお金といった即物的なものばかりを追い求め、「科学的ではない」「あるなら、見せてみろ」といった論調で、代々受け継がれてきた「敬う世界」をも否定してきました。そんな後ろ姿が作り出したものとは、一体何だったのでしょうか。

自分の生きざまが、見られているということを、もっと自覚しなくてはなりません。それは、立派な人間にならなくてはいけないということではないのでしょう。結果はどうあれ、何を大切にし、何を敬いながら、生きているのかという、人生への向き合い方の問題なのだと思います。失敗したり、後悔しながらも、阿弥陀様と歩んでいく。そこから伝わるものが、きっとあるはずです。■