2011(平成23)年8月   




 私たちは、自分で立ったり、座ったりしていると思いがちですが、支えて下さる大地があるからこそ、立ったり座ったりできるのです。でも、その支えて下さる大地に、深く感謝をしたことがあるでしょうか。そういう私はというと、感謝するどころか、当たり前のように踏んづけて、アッケラカンとしているのですが・・・。

 私たちは、頭では理解したり、知識として持っていることは多いのですが、そのことを深く味わい、噛みしめているのかというと、なかなかそうはいきません。大地を深く耕すように、自分の心を深く耕すことで、豊かな恵みを味わうことができるのではないでしょうか。お念仏の心を聞くとは、まさしく人生を支えて下さる大地を耕すということなのだと教えられるのです。そこにこそ、豊かな実りとの出遇いが開かれるのでしょう。

 浄土真宗は、船の宗教だと言われます。「弥陀の願船」「難度海を度する大船」といったたとえも数々ありますし、正信偈には、「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽(難行の陸路苦しきことを顕示して、易行の水道楽しきことを信楽せしむ)」とあります。これを読めば、陸路を自力で歩くのは大変だけれども、他力の船に乗って進むのは楽チンだというイメージになりそうですが、そうではありません。
  船は、乗る人よりも、もっと深く沈んでいるのです。自分の身を深く沈めて、私を支えて下さる働きがある。そのことに気づき、手を合わせていくのが、お念仏の世界なのです。人まかせにして楽チンだと、支えて下さる世界を見失っている姿は、他力本願から最も遠いあり方です。やはり、頭だけで理解するのではなく、心を深く耕すことがなければ、私を支えて下さる世界を、尊び、喜ぶことなどできないのでしょう。

 また、自分の力でこれだけやった、これだけ進んだと、自らの歩みを握りしめるならば、支えて下さる大地との出遇いは、開けることもありません。陸路を難行とさせるのは、そんな人間の在り方でもあるのです。■