2011(平成23)年9月   




 運動会のシーズンです。スポーツの得意な子には楽しみな季節でしょうが、反対に苦手な子にとっては嫌な季節なのかもしれません。
 何事においても一番をとるには、恵まれた資質だけではなく本人の努力が必要です。ですから、一番をとることは本当に尊いことですし、そこを目指すことが成長を促すことにも繋がります。
  
 しかし、どんなに頑張っても、誰もが一番になれるわけではありません。なぜなら、一番というのは競争の結果だからです。それは誰かと比べることで成り立つものですから、一番がいれば、二番もある。当然ビリもいます。誰もが望んでも、一番になれるのはたった一人。どんなに頑張っても、無理なことだってあります。体力や学力に恵まれた人もあれば、そうでない人もあるでしょう。だからといって、「どうしてあんなふうに生んでくれなかったのか」と叫んでも、自分の人生は誰かに代わってもらうこともできません。厳しいことですが、それが人生です。

 ならば、一番になれない者は、劣等感の中で生きなくてはならないのでしょうか。自分より劣った者を見下して、安心感を得ることしかないのでしょうか。そんな安心感にすがったとしても、自分が一番ビリになったら、どうすれば良いのでしょうか。

 私たちが生きている限り、競争は必ずついてまわります。しかし、勝つことで見えなくなることもあれば、負けることで気づくこともあります。逆に、勝つことで気づくこともあれば、負けることで見えなくなることもあるのです。ならば、競争を通して何を学ぶのか、何に気づくのか。そのことの方が自分の人生を生きる上で、もっともっと大切なことなのではないでしょうか。

 筋ジストロフィーという病気によって、27歳で亡くなられた河端洋安さんは、
    僕にできることは  あまりに少ないけれど
    たった一つだけ   僕にしかできないことがある
    それは「自分」を生きること 
       (『君への贈りもの』海鳥社)
という詩を遺されています。
 誰にも代わることができない「自分」の人生を、精一杯生きる。この河端さんの生き方を前にすると、誰かと比べて劣等感を持ったり、人を見下して安心したりという生き方が、いかに目先の結果に振り回されただけの薄っぺらなものなのかを教えられます。

 阿弥陀如来という仏さまは、足の遅い子を速くさせて下さる仏さまではありません。「たとえ結果がビリであっても、あなたの人生はかけがえのないもの。 だから、精一杯自分の人生を生きて下さい。」と呼びかけて下さる仏さまです。自分を誰かと比べて劣等感を持ったり、安心したりという世界から、解放して下さる仏さまなのです。
 「一番より尊いビリがある」そのことに気づく心が育てられることが、自分の人生を、そして周りの人々の人生を尊び、豊かに受け止めていく道なのだと教えて下さる仏さまなのです。■