2012(平成24)年11月



九州大谷短期大学で教鞭をとられていた宮城先生は、チェコの作家ミラン・クンデラの
 「人々の愚かさというものは、あらゆるものについて
      答えをもっているということからくるのだと、自分は思う。」
という言葉を大切にしておられました。
 普通は逆のように考えますね。答えをもっていない者が愚かな者であり、だからこそ勉強して答えを身につけようとするのです。考えてみれば、インターネットの世界では「オレはこれだけ知っている。みんな、わかっていないバカばかりだ。」という書き込みが、かなりを占めています。
 ところがクンデラは、答えを持っているところに人間としての愚かさがあると指摘するのです。答えを持つとき私たちは、あらゆる事柄をわかったことにしてしまう。そして勝手に決めつけた答えを物差しにして、まわりの事柄すべて無責任に判定し、評価してしまうのだと。

 また宮城先生は、学生に対していつも次のようなことを願われていたそうです。
「私たちの感じ方、私たちの体験は常に一面的であり、一部分でしかないということを決して忘れないということ。自分が知っている量がどれだけ増えても、それは決して人間を成長させない。一番大事なことは、自分には知らないことがたくさんあるということを知るということです。
 そして自分と違う世界があるということ、自分と違う感じ方をもって生きている人がいるということを忘れないということです。そういう人たちだけが、人の言葉に耳を傾け、人にまなざしを送ることを忘れないのでしょう。」

 わかっていないという自覚があるからこそ、謙虚に問い、たずね、聞くという姿勢が生まれるのでしょう。逆に、わかっているという姿勢は、問いたずねるということから、もっとも遠い姿勢だと指摘されます。


 雨が降ると、その水は山の頂に留まるのではなく、必ず低いところに流れ込みます。それと同じように、頭を下げ、自分を低くして、良い師を敬うならば、教えの功徳はその人に入り込む。しかし、もし人がおごり高ぶって自分を高くするならば、法の水は入らない。龍樹菩薩の『大智度論』に、こんな譬えがあります。
 本当に賢い人とは、知識の量を誇る人ではないのでしょう。自らの愚かさを知る人こそが、大きな世界と出遇う喜びを知るのだと教えられるのです。深く反省しつつ、受け止めたいと思います。■