2012(平成24)年12月




除夜の鐘をつく回数が百八つといわれるのは、私たちの煩悩や苦を除くためだと言われています。しかしいくらついても、私たちの煩悩は一向に減る気配はないようです。もし、鐘をつくことで煩悩がなくなったつもりにでもなっているとしたら、これはただ迷いを深めるだけの逆効果でしかありません。

ある保育所では、一つの問題を抱えていました。子どもを迎えにくる親が、遅れることがあるのです。親が来るまで保育士が一人、居残らなくてはなりません。この問題を解決するために、保育園では遅刻する親に対して「罰金」をとることにしました。すると予想に反して、親が遅れるケースが増えたのです。以前であれば、遅刻する親は後ろめたさを感じていたのが、お金を払うことでそれがサービスの「料金」へと感覚が変わり、後ろめたさや痛みを感じなくなったからというのがその理由だそうです。

 「罰金」には、「それは、やめて欲しい」という思いが込められています。しかし、それを「料金」として扱うことは、その思いを軽々しく扱うことになります。「お金を払うことで自分の行為は正当化される」という考えは、「お金さえもらえればいい」という価値観を持つ人にとっては有効かもしれませんが、そうではない人にとっては迷惑で、傲慢な態度にしか見えないことでしょう。
  痛みがなくなったとき、私たちは立ち止まることをしなくなります。正当化する理屈があることで後ろめたさがなくなれば、自らを見つめることも、相手を思いやることもしなくなるのでしょう。


 除夜の鐘の音を聞きながら、煩悩を抱えた自分の姿と向き合ってみる。そんな姿は、煩悩を消したつもりで正当化するよりも、もっと心豊かな生き方が生まれてくるのではないでしょうか。■