2012(平成24)年7月   







昔々あるところに、欄干もなく、雨が降れば消えてしまうような、一間幅くらいの橋がありました。その橋の上で、通りすがりの旅人が、足を滑らせてしまったのです。咄嗟に橋のたもとにしがみついたのですが、今にも川に落ちそうです。
 「誰か助けてくれ、助けてくれ〜」と叫んでいると、そこにお百姓さんが通りかかりました。「あぁ、よかった。どうか助けて下さい!」そう叫ぶ旅人に、お百姓さんはニヤニヤしながら「手を離せ」とだけ言って、去っていきました。「な、なんと薄情な。助けてくれ、助けてくれ〜」と叫び続けると、お百姓さんは振り返り、また「手を離せ」というのです。そうはいかない旅人は、一生懸命しがみついていたのですが・・・、とうとう力尽きて落ちてしまいました。
 「助けてくれ〜」
真っ逆さまに落ちたと思ったら…、何とそこは、水どころかすぐに足がつく川原でした。2メートルも3メートルもあったら怪我をしますが、わずか30センチ。大地はすぐそこだったというお話です。


 私たちは、いろんなものを頼みにし、にぎりしめて生きているのではないでしょうか。それが、本当に頼みになるものなのかも考えず、そこから下を見おろしながら、優越感に浸っているのかもしれません。しかし、実はその優越感とは、堕ちてはダメだとしがみつく劣等感の裏返しではないですか。そんな自分の思いが、堕ちる地獄を作り上げているのではないでしょうか。

 浄土真宗では、落ちることを大切にします。落ちて、大地に足がつくということが大切なのだと。金子大栄という先生は、「落ち着くというのは、落ちて着くのですよ」といわれています。落ちたところには、大地がある。あなたを支える人たちがいて、あなたを願う世界がある。そういう世界に気づかせていただくのが、このお念仏の世界です。「あなたがにぎりしめているものは、何なのですか」「にぎりしめているその手を、離しなさい」という呼びかけが、南無阿弥陀仏のお念仏なのです。


 力抜いて、自分がにぎりしめていたものを手放した時、私を支えて下さっている大きな世界との出遇いが開かれる。その世界を、「本願他力」の世界と言うのです。■