2012(平成24)年 9月   




 「人間は死ぬんだ」ということは、誰でも知っています。しかし、親しい人を亡くした時、簡単に割り切ることなどできません。いかに頭だけの理解でしかなかったかを、思い知らされます。私たちは、頭で、知識で理解したことで安心し、日々の出遇いの大切さ、尊さ、愛おしさを見失っているのではないでしょうか。

 以前、宮城という先生から、
「失った悲しみの大きさは、与えられていたものの大きさである。」
という言葉を教えていただきました。本当にその通りだなあというのが正直な思いです。しかしその驚きを、裏返してみれば「失わないと気づけないのか」という自らの愚かさへの気づきでもあります。

 ならば、このご縁を通して気づかされた「たくさんのものを与えられている」身であることを、日々の出遇いの尊さを、しっかりと味わいながら生きているかというと、どうなのでしょう。しばらくするとすっかり忘れてしまい、また親しい人を亡くしては、それが頭だけの理解だったと気づかされ「失わないと気づけないのか」と知らされるばかり。同じことを繰り返すだけに終わっているようです。
 仏教では迷いの姿を、尺取り虫が同じところをグルグルと回る姿に譬えます。私たちも同じ場所をグルグルと、迷いを深めながら生きているのかもしれません。

 大切な人を亡くすのは 本当に悲しいことです。しかし、そのことから何も学ぶことなく生きることは、もっと悲しいことではないでしょうか。悲しみの中から、教えられる大切なこと。それを、亡き人が仏様に成られて私たちに伝えて下さった教えだといただいていく。そこに、亡き人と共に生きていく人生が開かれていくのだと教えられるのです。■