2013(平成25)年5月



いよいよ、うちの長男も受験生となりました。ふと気づくと、「勉強しているだろうか」「隠れてゲームばかりしてはいないだろうか」「大丈夫か」と、心配ばかりしている自分がいます。ですからついつい、口やかましくなったりもして。しかし、彼はというと、こちらの心配をどれだけ受け止めているのか、「大丈夫」「わかっている」と繰り返すばかり。
 しかし、よくよく考えてみれば、私もそうやって育てられてきたのでしょう。にもかかわらず、その心をどれだけ受けとめてきたのかと考えると、ただ、ただ、恥ずかしいばかり。「親の心、子知らず」とは、よく言ったものです。

 親鸞聖人は、ご和讃に

「煩悩にまなこさへられて  摂取の光明みざれども
  大悲ものうきことなくて  つねにわが身をてらすなり 」

としめされました。煩悩に覆われて、私たちは阿弥陀様の光を見ることはできないけれども、阿弥陀様は厭きることもなく、常に私を照らして下さっておられるのだと。

 

阿弥陀様から願われ続けているのが、この私なのです。私が手を合わせている時でも、忘れているときでも、背いているときでも、どんなことがあっても、飽きることなく、私のことを願い続けておられるのが阿弥陀如来という仏様なのだと教えられるのです。

近頃は、「私のいのちは、私のもの。だから、何をしても私の自由だ。」と言われる人が多くなってきました。「人の思い」にしばられるなんて、嫌だと。それが自由な生き方だと。しかし、それは「自分の思い」にしばられている姿ではないでしょうか。「自分の思い」とは、やっかいなものです。思い通りになっている時にはよいのですが、思い通りにならない時には、自分を苦しめ、傷つけ、殺しさえするのですから。

 

この私にどんな願いがかけられているのか、どれだけ心配され、どれだけ大切に思われているのか。その思いに気づかされた時、「私のいのちは、私のもの」と軽々しくは言えないはずです。それは煩悩に振り回されて、自分の尊さを見失った言葉でしかありません。



 

 



私たちの先輩方は、阿弥陀様を「親様」と呼んで、その願いを深く受け止めて生きていかれました。では、私はどんな生き方をしているのでしょう。「親の心、子知らず」とは、よく言ったものです。ただ、ただ、頭を下げずにはおれません。■