2013(平成25)年8月





「逆上せる」と書いて、さて何と読むでしょう。答えは「のぼせる」です。意味は、@頭に血が上って、ぼうっとなる。A興奮して、理性を失う。逆上する。B夢中になる。C思い上がる。ということですが、近頃日本で「宗教」と言えば、まさしく「逆上せる」もの、夢中になり、理性を失い、周りが見えなくなるものというイメージで捉えられているのではないでしょうか。

 何事についても、夢中になるということはよいのですが、それで周りが見えなくなるといけません。お酒や賭け事に逆上せるのも困りものですが、もっと困るのは「自分が正しい」という思い込みです。宗教に限らず、イデオロギーも、志も、投資も、どんな取り組みでも、自分の選んだ道が正しいという思いに逆上せると、心を頑なにし、聞く耳を持たず、周りの事情も考えず、時には「大義のためには、人を殺してもかまわない」という方向にさえ、行きかねません。「正」という字は「一回止まる」と書くのですから、それだけ自分をふり返る視点が大切なのだということなのでしょう。


 









 ある方から、こんな譬え話を教えていただきました。掌を開いてみて下さい。そこに光が当たっていますね。では、その光を握ってみましょう。さて、握った拳の中に光はあるでしょうか。いえ、拳の中には闇しかないのです。私たちは、自分の信じた正義を握りしめているつもりで、実は見失っていることが多々あるのです。それが真剣な取り組みであるほどに、積み重ねてきたことが手放せず、握りしめた思いをますます頑なにするのでしょう。

 浄土真宗における「信じる」とは、阿弥陀様の心をいただくということです。それは自分の信じたことを頑なに握りしめるのではなく、自分の在り方を、常に阿弥陀様の心に問い訪ねていくことです。どんなに都合が悪くても、それが大切なことであるならば、受け止めていこうとする「拠り所」に出遇うということなのです。

 阿弥陀様の心は、自分の愚かさも、弱さも、受け止めて下さる世界です。そんな世界と出遇う時、人は安心して間違いを受け容れ、握りしめた拳を開くことができるのではないでしょうか。そこにこそ、深くて豊かな生き方があるのだと教えられるのです。■