2014(平成26)年1月   







私のことを見てくれる人がいる。その温かなまなざしは、人間が生きる上で大きな力となります。誰も見てもくれない、あっても無きが如く扱われているという状況は孤独であり、やる気も、そして生きる力さえも起こらなくなるのではないでしょうか。

 飢えた人、病気の人、誰からもケアされない人のために一生をささげられたカトリックの修道女、マザー・テレサは「人間として一番悲惨なことは貧しいことでも病気でもない。自分はもうだれからも見放されていると感じることだ」とおっしゃっていたと伝えられています。

 

しかしそれは、ただ単に周りに人がいる、いないということだけではないのでしょう。
 2008年に秋葉原無差別殺傷事件を起こした被告に対し、北海道大学准教授の中島岳志さんは、「コミュニケーションが下手で、友達がいない若者はたくさんいる。彼はうまくやっている方なのに、彼は孤独だった。問題は友達がいないことではなくて、友達がいるにもかかわらず孤独だったことだ」と指摘しておられます。
 どれだけ人に囲まれたとしても、能力や財産といった私の周りのものへの興味であるならば、失ったときの恐怖もつきまといます。やはり、私の存在そのものの、よりどころとなるようなまなざしを感じることがなければ、人間はどこまでも孤独なのだと教えられるのです。しかし、どんなに温かなまなざしが向けられていたとしても、感じとる心が育てられなければ、気づくこともありません。




 

親鸞聖人は、我が身を照らす温かなまなざしを、阿弥陀如来の本願に聞き取られた方でした。本願とは、「あなたが尊ばれ大切な仏に成らなければ、私も仏には成りません。その道は既に用意されている。そのことに気づいて下さい。」というメッセージです。つまり、いくら長い間仏法の歴史があったとしても、あなたが仏に成らなければ、これまでの仏法の歴史は全部意味を失うのだという願いです。そのメッセージを親鸞聖人は聞き取られ、自らのよりどころとし、生きる力にされたのです。
 「そんなものが、どこにある。」そう言われそうな時代ではありますが、親鸞聖人の生き様に惹かれ、「私にもそのまなざしが向けられているのだ」といただかれた方々の歴史が、お寺を建て、お仏壇を用意し、事実私たちのところにまで至り届いているのです。「あなたにも、このまなざしは向けられている。どうか気づいてくれよ。」という願いと共に。


  

中国に「冷たい飯と冷たい茶は我慢ができても、冷たい言葉と冷たいまなざしには耐えられない」という諺があるそうです。今の世の中、どこに行っても温かいご飯と温かいお茶は手に入ります。チンとすれば、すぐに温まります。そんな自分の周りのものばかり充実させて、人生そのものが充実したのかというと、どうでしょう。温かなまなざしを、そして感じる心を、私たちはおろそかにしてきたのではないでしょうか。■