2014(平成26)年10月





二人のおばあさんが、金沢のお寺に伝わる幽霊の絵を見にいかれました。二人は同じ絵を見て、全く違う、それも対照的な言葉を言われたそうです。
 一人のお婆さんは、うらみつらみのすざまじい眼をした幽霊の絵を見ながら「うちの嫁の眼だ」とつぶやいたというのです。自分はさて置いて。
 もう一人のおばあさんはというと、「私は、あんな眼で嫁を見ていたかなぁ」と、自分の姿を振り返りながら、つぶやかれました。
 
 自分を振り返ることのない生き方は、自分がどんな眼をしながら生きているのかもわからないということなのでしょう。うらみつらみのすざまじい幽霊のような眼をしていても。

 私たちは、毎朝鏡を見ます。寝癖はないか、シワやシミを隠せているか、みっともない姿をしていないかと、身支度を整えます。しかし、自分の醜く、みっともない生き方を隠せているかについては、なかなか気にはなりません。人の悪い部分はいくらでもわかるのですが、自分の悪い部分というのは、なかなか気づくことさえできません。でも、醜い生き方を平気でさらす方が、余程恥ずかしいですよね。もっともっと、自覚していきたいものです。 


 大会場で開かれる仏教講演会がありました。五、六百人の方々が集まられる大規模なものです。中には、お付き合いで来られる方もあったようでした。閉会式も終わり、主催者の方が、受付を担当していた人たちをねぎらおうと声をかけると、そのうちの一人が「最後のお話が始まってすぐのことです。中年の男性が一人、途中帰られるようだったので挨拶をすると、立ち止まって『俺に当てつけみたいな話をしやがって。気分が悪くなった。』と言われて立ち去られました。」と教えてくれたというのです。

立ち去られた方は、まさしくご法話の言葉に自分の生き方をずばり言い当てられたのでしょう。思わずその場を立ち去ってしまったようですが、その言葉はトゲのように心に刺さり、気になり、邪魔になったのではないでしょうか。それまで何とも思わなかったことに、痛みを感じるようになったのではないでしょうか。それは「私は、あんな眼で嫁を見ていたかなぁ」と幽霊の絵に自分の姿を見出された、おばあさんにも共通している姿勢です。

 ならば、この方たちの聞き方こそ、本当の仏法の聞き方なのでしょう。いくら聞いても「うちの嫁の眼だ」と他人事にしている限り、虚しいものに終わってしまいます。

 善導大師は、「経教は鏡の如し」と言われています。み教えとは、自分を映す鏡であり、生き方を映す鏡であると。ならば、朝起きて鏡を見ながら身支度を整えるように、毎日仏さまに手を合わせ、生き方を振り返り、整える時間も大切にしなければならないのではないでしょうか。そんなことを思いながら、改めて、私は自分の生き方を振り返っているのだろうかと考えさせられたことでした。■