2014(平成26)年4月








二〇〇八年に東京地域限定で、AC公共広告機構のこんなコマーシャルが流れたそうです。

「高齢化社会が進む中、電車やバスの中で、もたついて転ぶお年寄りが増えています。

 他の人に迷惑をかけないようにと、早く席を立つことが原因のようです。

もたつくことを見守れるくらい、心にゆとりある社会にしたいですよね。

もたつく権利よろしーく」

素敵なCMだと感心していたのですが、インターネットではかなり叩かれていた様子。原因は、「もたつく権利」という部分です。お年寄りへ配慮することはわかるけれども、それを「権利」として主張されることには、不快な思いを持つ人がいるのだとか。 

《 「私にはもたつく権利がある。黙って待ってろ」って主張されたくない。 》

《 ならば若者が、「俺たち若いし、焦る権利よろしく」と言えるのでは。 》 

という意見が、書き込まれていました。


「権利」「人権」「平等」とは、差別が当たり前だった時代から、たくさんの先輩方の血の滲むご苦労の中で、掴みとられたものでした。ところがその歴史への感謝の思いもなく、当り前のように、しかも安易に「権利」という言葉が使われることで「我が儘を主張する人が使う言葉」というイメージが、すっかり定着してしまったのです。

「権利」とは、私だけが尊いということではありません。すべての人間が尊いということです。ならば、私の尊さを主張することは、同時に相手の尊さへの敬いが不可欠です。家族も他人も、よく知っている人も知らない人も、好きな人も嫌いな人も尊いのです。それを見失ってしまうことは、先達の苦しみや営みを踏みにじることにさえなるのです。


しかし、そんな背景を鑑みても、「もたつく権利」への反発には驚かされます。なぜなら、反発する人には、自らもやがては老い、病み、弱っていくという厳粛な事実が見失われているからです。それは「今の元気な私」を基準にした、ある意味傲慢なものの見方です。

自らを、強者、善人、賢者の立場に置く人の限界が、そこにはあります。今の時点でどんなに強くても、やがて弱い立場になっていく。縁に触れれば、どんなことをしでかすかわからない私である。親鸞聖人は、「底下」の立場に身を置き、物事を見ていかれた方なのです。

そこから見える景色は、すべてのいのちが、阿弥陀様から願われているという事実でした。みんな同じ大地に樹っているいのちの事実であったのです。■