2014(平成26)年6月






先日、面白い話を聞きました。
「夜、爪を切ると、親の死に目に会えないという迷信があるが、
 私は平気で夜爪を切っている。
 しかし、子どもの爪だけは
 夜、切れない。」
 迷信だと笑いとばしておきながら、される側になるとためらい不安になる。誰もが笑いながらもうなずいてしまう話です。やはり、自分のこととして突きつけられない限り、他人事にしてしまうのが私たちなのでしょうか。

 
 
昔の日本には、「うばすて」という習慣があったと伝えられています。食料事情の貧しい時代、口減らしのためにある一定の年齢になると、お年寄りが山に捨てられたという悲しい歴史です。その「うばすて」が行なわれていた時代、とんでもない男がいて、早く母親を捨てられる年になればいいがと待っていたというのです。

遂にその時がやってきました。男は、竹で母親の入るだけの籠を編みました。中へ母親を放りこみ、息子と二人交代で背負い、山を登っていきました。やっとのことで決められた場所にたどりつき、籠ごと母親を放り出して二人は山を降りはじめます。

しばらくして息子が 「父さん、俺忘れ物をして来た。取りに帰ってくる。 先に行っといてくれ。」「何を忘れたんだ」「籠さ、籠だよ」「そんなものもう要らんじゃないか。捨てておけ」「そうはいかん。あんたが要らんでも、俺はいる」「なぜ?」「だって考えてみろよ。その内、あんたを捨てにゃならんだろう。その時に要るじゃないか。」聞いた父親は、しばらく呆然としていましたが、一目散に山へかけ登り、母を背負って帰ったということです。

親を敬うことを知らない者は、子どもからは敬われることはありません。自分が欲しいものは、まずそれを他人に与えることによってしか手に入らないのです。敬いの姿は敬いを生み、蔑みの姿は連鎖は蔑みを生むのです。

立ち止まり、自分がどんな生き方をしているのか見つめてみる必要があるようです。■