2014(平成26)年9月





ギリシャ神話に、こんなお話があります。
 スフィンクスが通りかかる人間になぞなぞを出し、答えられなかった者を食べてしまうというのです。そのなぞなぞとは「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。この生き物は何か?」というものでした。
 ちなみに答えは・・・・「人間」です。赤ん坊の頃は四つん這い、やがて二本足で立つようになるが、老人になると杖を突くので三本足になるというのがその理由。「朝」「昼」「夜」は人間の一生を一日に例えた表現ですが、この物語が伝えようとしているのは、人間とは時間の経過と共に姿が変わるというのが大前提の生き物であるということなのでしょう。

 人間は、生まれ、成長し、老い、病み、死んでいく。時間が経つごとに姿が変わる。つまり、幼児とは「過去の私」のことであり、老人とは「未来の私」のことであり、病人や障害を持つ人は「たまたまある分岐点で『あっち』に行った私」なのです。この厳粛な事実を、私たちはついつい忘れてはいないでしょうか。

 

 これは、ある女子大生の文章です。これを初めて読んだ時、呆然としたことを覚えています。

 

高齢者が孤独死しなければならないのはなぜでしょう。

障害をもった人たちが、あまり街へでてゆけないのはなぜでしょう。

友だちとそんなことを話すたびにいつも言われるのは、「年寄りというのは、あるいは障害者というのは、助けてもらうことが当たり前だと思っていて、感謝がたりない、傲慢だ、そんな人たちに手助けをしてやる必要はない」ということです。「では、あなたがたとえば事故にあって、ひとの手助けがなければ生きられない体になったらどうするのか」と聞けば、「その時は自殺する。世の中に迷惑をかけたくないから」と言います。私は、そんなのっておかしいんじゃないか、と思いながら、その話にうまく反論できず、どこか共感すらして、黙り込んでしまいます。

これがどういう意味だか分かりますか。私たちは、自分が困った状況に立たされたときに、自分の力だけではだめで、他人の助けが必要な時に、誰かが手をさしのべてくれるかもしれないことを信じていないんです。そんなことはありえないと思っているんです。だから、困っている人を見ても、黙って通り過ぎることが当たり前になっている。人間は、なにか代償を払わなければ、かかわりあうことができないと、思い込んでいるんです。

 (「教育を取り戻すために」―――八尋麻子)

 

 人間は、いつも強く生きられるわけではありません。病気にもなりますし、必ず年をとります。もしかしたら、障害を持つ身になるかもしれません。それらは全て「未来の私」の姿です。そうなったら「自殺する。世の中に迷惑かけたくないから。」ということであれば、いつもビクビクしながら生きていくしかありません。何より子どもの頃から、既にいろんな人に迷惑をかけ、赦してもらって、育てられてきたのではありませんか。

 仏教では、正しい見方(正見)とは、偏らない見方であるといわれます。今、見えている事だけですべてを量り、決めつけることは、明らかに偏っています。目には見えないけれども、そこにある事実を想像していく。そこから知らされることがたくさんあるはずです。

 

作家マルセル・プルーストに、

「老年に対しても死に向かっても、同じく無頓着に立ち向かう人があるが、それは他の人たちより勇気があるからではなく空想力が少ないからである」という言葉があります。「過去の私」「未来の私」「そうなるかもしれない私」と想像してみたときに、ものの見方は変わるはずです。当然、向き合い方、接し方も変わってくるでしょう。そこに、謙虚で敬いのある生き方が始まるのだと教えられるのです。■