2015(平成27)年1月





 『大無量寿経』に「身自当之 無有代者(私の人生は、誰にも代わってもらうことはできない)」という言葉があります。厳しい言葉です。どんなに思い通りにならなくても、不満の中にあっても、私の人生には代理人はいない。それは『あきらめ』なくてはならないのだと。
 それは、「いじめられても我慢しろ」「差別されても耐えろ」ということではありません。いじめ・差別は、尊さを奪うものであり、恥ずかしく悲しい行為です。決して受け容れてはなりません。
 しかしもっと悲しいことは、思い通りにならないからと自分の人生をあきらめ、貶めていくこと、自分で自分の尊さを奪うことではないでしょうか。思い通りにならなくても、私の人生は尊いもの。ならば、この人生を「誰にも代わってもらわなくてもいい、かけがえのない人生」といただかねばならないでしょう。


 以前、病院でお話をする機会をいただいた際、ある女性から「『私の人生は誰にも代ってもらえないけれども、誰にも代ってもらわなくてもいい、かけがえのない人生にしていかなければならない』って、本当にいい言葉ですね。私は、病気で入退院を繰り返していますが、私の人生を大切にして生きていきたいと思います。」という言葉をいただきました。病気である身を受け容れ、あきらめることで、かえって前向きに生きておられる方でした。
 ところが、寂しそうにつぶやかれるのです。「母が泣くのです。こんな身体に生んでしまったと、泣くのです。それが私にとっては一番つらいのです。」と。娘を思う親心が、かえって娘を苦しめている。切ない話ではありませんか。「思い通りにならない」と悲しむことが、あきらめきれないことが、かえって娘の人生を貶めているのですから。


 実は、仏教でいう『あきらめ』とは、明らかに見る、ありのままに見る(諦観・正見)ことを言うのです。つまり、何を受け容れねばならないのか、何を受け容れてはならないのかを知ることです。それが仏さまの智慧なのです。私たちの先輩方は、阿弥陀さまのみ教えを通して、自分の人生を本当に尊いものとしていただく智慧を学び、歩まれたのです。
 確かに受け容れるということは、しんどいことでしょう。しかし、そこにしか私の人生はありませんし、そこからしか始まらないことも事実なのだと教えられるのです。


 フランスの思想家レヴィ=ストロースが、「ブリコラージュ」ということを言われています。それは、有り合わせの道具や材料を使ってものを作ることを言います。
 例えば、冷蔵庫にある有り合わせで美味しい料理を作る。持ち合わせの道具や材料で小屋を作り、椅子を作る。「ちゃんとした材料や道具がなければ、仕事を始めることができない」というのではなく、そのつど「持ち合わせ」の道具や材料でなんとかすることを言うのだそうです。
 私たちの人生は、まさしく「ブリコラージュ」するしかないのでしょう。「どうして、こんな環境に生まれたのか」「どうして、私にはあの才能がないのか」と嘆いても、私の人生は誰にも代ってはもらえない。ならば、「持ち合わせ」のもので何とかするしかありません。
 それは、自分にないものを嘆くよりも、「自分には何があるのか」を点検する作業です。過去を振り返り、周りを見渡す。なければ、別のものを転用する。「これがなければ、何もできない」と嘆いても何も始まらない。あるもので何とかしなければならない。
 同時に、今まで価値や意味のないものだと思っていたことに、新たな価値や意味が生まれてくるということでもあります。過去が見直され、世界の見方が変わる。今までとは、違う形での出会いが広がるのです。周りの人とも、亡き人とも。そして、仏さまとも。


 私たちの先輩方は、自分が求めていたものとは全く違うものを、仏法を通していただかれました。そこには、自分が気づくよりも先に、私を思い、願っていて下さる阿弥陀如来の世界がありました。その世界からいただく智慧によって、受け容れなくてはならないものに気づき、受け容れてはならないものに立ち向かわれたのです。そこに、人生の新たな意味が生まれてきたのでしょう。その歩みの歴史が私のところにまで至り届き、私の歩みを励まして下さるのです。■