葬儀に行きますと、様々な悲しみと出遇います。しかし、中には気丈にふるまう人もあり、明るくふるまう人もあります。ところが先日、ご主人の七回忌を済ませられた方から、「主人の葬儀から三年間の記憶が、あまりないのです。」と言われたのです。周りからは、しっかりしておられると感心され、元気に見えたその方も、実は深い悲しみの中にあったのでした。人は、外からでは見えないものを抱えながら、生きているのだと教えられ、私がいかに薄っぺらくものを考えていたかと深く反省させられました。
目には見えなくても、誰もが悲しみ、悩み、苦しみを抱えながら生きています。それを呑み込んで生きる人を、「のん気」だと笑う人こそが、実は「のん気」な生き方をしているのかもしれません。私たちが見ているのは、その人の一部でしかないことを、忘れてはならないでしょう。
仏道修行の根本は、正見(正しくものを見る)です。ここでの「正しさ」とは偏らないということであり、つまりは「ありのままに見る」ということです。しかし、私たちは「ありのままに見る」ことはできません。茶筒も、真横から見れば長方形に見えますし、真上から見れば丸に見えます。斜めから見たとしても、内側は見えません。
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