2015(平成27)年2月






長男が、野球の試合で膝の靭帯を痛めました。しばらく固定し、安静にしていたのですが、友人に紹介された整骨院に連れて行くことにしました。
 固まった膝をほぐすには、痛みが伴います。それは傍から見ても、本当につらそうです。でも先生は「我慢しろ」とは、言われませんでした。「こりゃ痛いよな。痛い、痛い。痛いなぁ。痛いなぁ。」と言いながら、治療されるのです。治療を終えた長男は言いました。「痛かった。でも、先生の言葉があったら、何とか耐えられた。」と。
 一緒に「痛い」と言ってくれる人がいることが、痛みに耐える力になるのですね。とても大切なことを、教えてもらいました。

 

長年、福岡県でチャイルドライン(いじめや児童虐待など、悩みを持つ子どもたちに寄り添い、耳を傾ける電話相談の慈善活動)に取り組んでおられる山口祐二さんは、電話をかけてきた子どもの言葉を、ただ繰り返すことが、信頼関係を作るのにとても重要であると指摘しておられます。聴いてもらっている、受け容れてもらえているという実感が生まれるからだそうです。
 逆に、言ってはならないのが「わかる、わかるよ」という言葉。かえって「お前なんかに、何がわかるんだ」と反発を生むのだそうです。

     (山口祐二著『チャイルドラインで学んだ子どもの気持ちを聴くスキル』ミネルヴァ書房)


 「寒いね」と話しかけたとき、「寒いね」と返ってくる。痛い時には「そうか、痛いなぁ」と受け止めてくれる。何の意味もない会話のようですが、そのやりとり中で、自分がつながりの中にいることが実感されるのでしょう。自分の存在が承認され、受け容れられていることが分かるのでしょう。
 言語学者のローマン・ヤコブソンは、これを「交話的機能」と言っておられるようですが、自分のメッセージを受け容れてくれる他者がかたわらにいる、ただそれだけのことが、生きる上でとても大切なことだと知らされます。

 

 親鸞聖人がお亡くなりになる時に、遺されたとして伝わっている『御臨末の御書』というものがあります。有名な「一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」という言葉です。
 これは後に、偽物だということが明らかになりました。しかし、この言葉が長く親鸞聖人の言葉として伝えられたのは、「親鸞さまなら、きっとそう言われるだろう」と皆が思っていたということなのでしょう。聖人の生き様に、私に寄り添い、私を受け容れて下さるあたたかさ≠感じ取られていたからではなかったでしょうか。

「南無阿弥陀仏」と称え、お念仏に込められた阿弥陀如来や親鸞聖人のよびかけを感じる。共に生きて下さる温もりを感じていく。「私がさびしいときに、仏さまはさびしいの」(『さびしいとき』金子みすゞ)と思える。
 ただそれだけのことかもしれませんが、そこから生きる力をいただかれた先輩方の歩みがあり、後に歩む者の生きる力を生みだしました。その歴史が、今私たちのところにまで、至り届いているのです。大切に受けとめていきたいものです。■