2015(平成27)年6月





投打の二刀流で有名な、プロ野球・北海道日本ハムファイターズの大谷翔平選手は、高校時代の監督から「自分のやりたいことよりも、自分にとって大切なことをやろう」と指導されたそうです。
 やりたいことと、大切なことは違います。ネットやゲームがしたいからと、勉強や練習をサボれば自分のためにはなりません。やりたいことがかえって自分を堕落させ、成長を阻害することは、いくらでもあります。誘惑や一時の感情と上手くつきあえず、自分を見失うことは大人でもありがちな話でしょう。何より、「自分にとって大切なこと」を積み重ねてきたからこそ、大谷選手の活躍もあるのですから。

 

近頃は、好き嫌い、損得だけをものさし(判断基準)にする人が増えました。私も先日、PTA会長を「好きでやっているんでしょう?」「大変ですね。最初から受けなかったら良かったのに。」と面と向かって言われ、ガックリきました。いえ、いえ、好きだからではないのです。大切なことだと思うからこそ、引き受けているのです。

 私たちは、好き嫌い、損得で考える人を「利己的な人」だと言います。でも、本当に自分の利益を大切に思うのならば、どうすれば自分が最も幸せに生きられるかを考えるでしょう。まずは、健康ですよね。いくら好きだからと、暴飲暴食は後々大変なことになりかねません。精神的な安定も大事ですし、家族の仲が良くて、周りの人から愛されて、尊ばれて、親しく信頼できる友人がいて・・・。あと、社会が平和で、政治や経済が安定していることも必要。自分の国だけ良くても、周囲の国と険悪だったら、落ち着きません。環境が破壊されても大変ですし、治安が良くないと困ります。いじめや差別が増えると、その矛先がいつこちらに向けられるかと、ビクビクしなくてはなりません。

 

つまり私の幸せと、私を取り巻く社会は、切り離すことができないのです。本当の「利己的な人」とは、「自分にとって大切なこと」を行える人のことを言うのでしょう。近頃言われるところの「利己的」とは、単に欲望に流されて自分を見失った人であり、自分を大切にできていない人のことなのです。

 仏様の悟りの境地を、自利利他円満と言われます。自己を利することが、そのまま他者を利することでなければ、悟り(真実)とは言えない。世界は繋がり合い、切り離すことができないのが、「まこと」の有り様なのだと、仏法では教えられるのです。そのことに気づかなければ、迷いはますます深まり、自分の人生をますます粗末に扱ってしまうようです。■