2015(平成27)年7月






映画『独立愚連隊』などで活躍され、「和製チャールズ・ブロンソン」とも呼ばれていた俳優・佐藤允さん(2012年に逝去)を覚えておられるでしょうか。名前は知らなくても顔を見れば、大抵の方がわかります。とはいえ今の若い世代の方々は、チャールズ・ブロンソンもご存知ないでしょうから、住職世代以上の方だけなのかもしれませんが。
 その佐藤允のお母さん・キナさんは、篤信の念仏者でした。キナさんが亡くなられた後、こんな詩が出てきたそうです。

 

1 ひとりじゃなかもん み仏といっしょに朝食いただいて  

2 ひとりじゃなかもん み仏とよもやま話に花さかせ  

3 ひとりじゃなかもん み仏に不平も愚痴も話します

4 ひとりじゃなかもん み仏は笑ってうなづきなさいます

5 ひとりじゃなかもん み仏のお慈悲のふとんに眠ります   

6 ひとりじゃなかもん み仏と大悲の朝をむかえます

7 ひとりじゃなかもん み仏と無限の光を拝みます

8 ひとりじゃなかもん み仏に両の手合わさせてもらいます

 

一人暮らしだったキナさんは、阿弥陀様と一緒に生きておられたのです。一昔前は、そんな方がたくさんおられました。それだけ、阿弥陀様の存在を身近に感じ、ぬくもりや手触りを感じておられたのでしょう。だからこそキナさんは、一人でいても独りではなかったのです。ところが今の若い人たちは、仏様がおられることにリアリティ―を感じていません。そういう世界を「科学的ではない」「古臭い」と、馬鹿にし踏みにじってきた歴史があるからです。

ある社会学者が、「宗教があまり大きな意味を持たない現代の日本では、周りの人から認めてもらうという形で自分というものを確認している。すると、周りの人の目ばかりが気になり、見捨てられたら死ぬしかない。」と指摘しています。周りの目ばかり気になると、「みんながいじめているなら、私もいじめなくてはならない。」「みんながやっているなら、俺もやっていい。」ということにもなりかねません。事実、「みんながやっているから」と理由だけで、大切なことがどんどん切り捨てられています。そうなると「みんなが認めてくれないから」と、自分を切り捨てても不思議ではないでしょう。

誰もわかってくれなくても、見守って下さる方がある。私が私を見捨てても、見捨てることなく願いをかけて下さる方がある。それが阿弥陀如来という仏様です。キナさんは、阿弥陀様からの呼び声であるお念仏を称えながら、阿弥陀様に支えられ、励まされ、導かれて生きておられたのです。「仏様が一緒にいて下さる」という回路が成立していることが、人生にとってどれほど大きなことなのか。キナさんの後ろ姿を通して、私たちはそれをもう一度取り戻す必要があるのではないでしょうか。■