2015(平成27)年8月






大河ドラマ『花燃ゆ』は、視聴率が伸び悩んでいるようです。幕末の、しかも今までスポットライトが当たらなかった人々を描くドラマです。名前も覚えにくく、関係性や流れが複雑に入り組んでいるので、わかりにくいということがあるのでしょうか。そこに、「軍国主義の象徴に利用された吉田松陰」というイメージも絡み、山口県以外の人々には抵抗があるのかもしれません。

 さて、幕末の長州藩で維新の原動力となった改革派・討幕派の吉田松陰や久坂玄瑞、高杉晋作といった人々を、これまで「正義派」と呼んでいました。一方、その藩内の対抗勢力である保守派・幕府恭順派の椋梨藤太(演じるのは、内藤剛志さん。やはり、この人は悪役が似合います。)たちを「俗論党」と、呼んできました。ところが最近では、研究の場においてもこれらの呼び名は使わないのだそうです。
 実は「俗論党」と呼ばれてきた人たちも、当時は自分たちのことを「正義派」と自称していたのです。つまり、どちらも「我らこそ、正義だ!」と主張し合っていたということです。「正義」対「悪」という構図は一面的な見方であり、実際は両方が「正義」を主張する「正義」対「正義」の戦いでした。

松陰たちを「正義派」と呼んだ歴史は、あくまでも勝ち組から見た歴史認識なのです。確かに勝った側から見たら、負けた側は悪役に見えるかもしれませんが、負けたからといってすべて間違っているわけでもない。冷静に考えてみれば、ごくごく当たり前のことです。
 同時に、勝った方が間違っているということでもなく、負けた方が正しいということでもありません。これも、当たり前のことです。

親鸞聖人は、私たちのふるまいは「雑毒の善」でしかないのだと教えられています。一方的な「正義」の主張は、相手の立場を考えません。ためらわないし、ブレーキもかかりません。止めどもなく、相手を攻撃します。私たちが善いことだと思ったとしても、そこには毒や間違いが必ず混じる。その自覚が、自分を振り返り、相手を思いやることを生むのでしょう。

親鸞聖人が、「日本のお釈迦様」と尊敬された聖徳太子の十七条の憲法に、「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫ならくのみ。」とあります。私がいつも正しいわけではなく、相手がいつも間違っているわけではない。ともに、ただの人間なのだ。ごく当たり前のことです。しかし、ここには卑屈な自虐的態度などありません。人間という存在を深く受けとめた、謙虚で誠実な生き方が示されています。が、私たちはこの事実を見落としてはいないでしょうか。本当に、このことを前提にしているのでしょうか。逆に、「私は大丈夫。絶対に間違いは起こさない。」と自らの正義を推し進める人に、傲慢さと軽薄さを感じるのは、私だけではないはずです。「人間は、いつの時代においても不完全な、ただの人間である」と定義するならば、自分を常に振り返る、相手を思いやるという営みは、生きる上において不可欠なものだと言えるでしょう。


時代的な状況において(幕末におけるヨーロッパの植民地政策は、それはそれは、怖ろしいものだったでしょう。)、それぞれが生き延びるために正義を掲げていく必然もあったはずです。しかしそこには、同じように故郷を思いながら、意見が違うからと切り捨てられた人もいたのです。その後ろめたさを忘れ、爽やかに善人面して生きるわけにはいきません。

いや、心に後ろめたさを持ちながら生きる人の後ろ姿にこそ、複雑さを受け止める奥ゆきと豊かさと自省の心、そして他者を想う優しさを感じるのです。■