2016(平成28)年12月




 「恥ずかしい」という言葉は、自分の欠点・過失などを自覚し体裁悪く感じるさまをあらわす言葉です。自分の生き方を振り返り、気づかされ、反省する。痛みを覚えることを言います。それは、人間が生きる上で、とても大切なことです。欠点のない人間なんていませんし、間違えない人間だっていないのですから。ならば、恥ずかしいと思うことが少なくなっているということは、自分を振り返ることが少なくなっているということなのかもしれません。


 以前TV番組で、「無痛無汗症」という病気を紹介していました。私たちが日ごろ、不快と思う「痛み」や「汗」を感じることができない病いです。無痛無汗症の子どもさんのご家族は、本当に大変なのだそうです。グラスなどの割れ物は、置いておけません。うっかり割ってしまい、踏みつけたり手を切ってしまっても、痛みを感じないから傷は深くなるばかりだからです。火傷をしても気づけませんから、コンロも要注意。汗をかけないので、体温調節もできません。親御さんは、心を配りながら、同時に心を痛めておられることでしょう。本人が気が付かないので、時には命の危機まで及ぶこともあるのだとか…。
 痛みがわからないというのは、とてもおそろしいことなのです。



無痛無汗症の患者会、NPO『トゥモロウ』のホームページには、
「みなさんは『痛み』や『汗』がこの世から無くなればいいと思ったことはありませんか?私たちはその 『痛み』と『汗』の無い“無痛無汗症”という難病を持つ患者家族を中心とした会です。/私たちの存在を通して、実は『痛み』と『汗』が人にとってどんなに大切なものなのかを、多くの方々に知って欲しいと願って活動しています。」
とあります。
 私のようなものには、とてもわからないようなご苦労があるはずです。せめて、「痛み」の大切さを知って欲しいという願いを、受け止めなくてはなりません。痛みを感じることができなければ、自分が傷ついていることが、わからないのですから。



 それは、身体の痛みだけではありません。心に痛みを感じることがなかったら、自分の人生を傷つけても、貶めても、わからないということです。心に痛みがあり、恥ずかしさがあるということは、実はとても尊いことなのです。
 親鸞聖人は「無慚愧は名づけて人とせず」(『教行信証』信巻)とあらわされています。慚愧とは、天に恥じ人に恥じるということですから、自らの生き方を振り返り、深く恥じていくことです。その慚愧の心があるからこそ人なのだと。

 私は、どんな時に「恥ずかしい」と思っているのでしょうか。小さなプライドが傷つくことに「恥ずかしさ」を感じるよりも、大切なことを見失う方が「恥ずかしい」はずです。自分の人生を大切なものにするためにも仏様の光に照らされて、もう一度自分の生き方を見つめ直さなくてはと思っています。■