2016(平成28)年3月



 作家の五木寛之さんが、アメリカの医科大学でのある実験を紹介されています。
 それは、集まった被験者の体に電極をつけ、細胞の動きをモニターで観察するもの。まず、被験者にうれしかったこと、楽しかったことを考えてもらうと、細胞が生き生きと活性化し、免疫力が高まることがはっきりわかるというのです。
 次に、最も辛かったこと、切なかったこと、悲しかったことを心の底から回想してもらいます。みんなじっと目をつぶって考え込んでいくうちに、ぽろぽろ涙を流す人も出てきます。すると驚くことに、最も悲しい状態に自分の心をゆだねたときにも同じように人間の細胞は生き生きと動き始め、免疫力が高まることがはっきりと見えたのです。

 五木さんは、
「そうか、人間というものは、喜ぶだけではなくて、本当の意味で深く悲しむことによっても人間の命というものを生き生きと活性化させることができるのだな」
                        (『自分という奇蹟』五木寛之)
と思ったと言われます。

「悲」という漢字は、「非」と「心」という字で成り立っています。「非」とは、鳥が翼を広げて、両方から引っ張られ、引き裂かれている状態をあらわします。つまり、「悲」とは引き裂かれた心という意味なのです。大切な人を亡くした時、別れねばならない現実と、別れたくない思いとの相反する心に引き裂かれている状態のとき、人は悲しむのでしょう。
 ということは、大切に思うからこそ、悲しみも深いということです。大切に思えないのであれば、悲しくはありません。つまり悲しみの深さは、大切に思う深さでもあるのだといえるでしょう。悲しみを通すからこそ、大切な人や大切なことの尊さを味わうことができる。ならば、悲しみが人を生き生きとさせることも、うなずくことができます。



 近頃は外灯が完備されて、夜でも安心して歩くことができるようになりました。ところが、外灯が常に灯る田んぼのお米は育ちが悪いという話を聞きました。明るいだけでは育たない。生育には、暗闇の時間が必要だということなのでしょう。それと同様に、人生においても深く悲しむ時間があるからこそ、豊かな生育があることを教えられるのです。考えてみれば、深く悲しむことのない人は、相手の悲しみを尊重することはできません。大切な人を失った悲しみを通すからこそ、その悲しみに寄り添えることができるのです。

「夜の闇の暗さや濃さを知っている人間だけが、朝の光や暁の光を見て、朝が来たと感動できるのではないか。あるいは、日中の激しい炎天の中で生き続けた人間だけが、黄昏がおりてきて、やさしい夜が訪れてくることの喜びを知ることができるのではないか」(同 五木寛之)

 親鸞聖人は、ただ阿弥陀如来の救いをよろこばれているわけではありません。その光の前に立ち上がる黒々とした自らの闇を深く見つめておられます。その悲しみを、闇の濃さを通したよろこびだからこそ、長い歴史を超えた私たちの胸を強く揺さぶるのでしょう。

 五木さんは、岡本かの子さんの「歳々に わが悲しみは深くして いよよ華やぐ いのちなりけり」という歌が大好きなのだそうです。一年一年自分の悲しみや老いの辛さ、人生の責め苦というものは積み重なって深まっていくばかりである。しかし、そういうものから目をそらさずに、悲しみや辛さと正面からしっかりつき合っていくと、いつの間にかその悲しみのかなたに、生き生きと華やいでくる自分の命というものが見えるような気がすると。深く味わいたいものです。■