2016(平成28)年4月



 この言葉は、どなたのものかはわかりませんが、この方すごいと思います。道端の草花にいのちの輝きを見出し、尊さを学び、そして自分の生き方を振り返っておられる。私はというと、草花に「役に立つか立たないか」という自分のものさしを押し付けて、その花の輝きを見抜こうともしていませんでした。そんな薄っぺらなものの見方が、恥ずかしく思えてきます。卑しい見方でものを見れば卑しく映り、尊い見方で見れば、尊く見えるということなのでしょう。

 親鸞聖人の言葉に、「いし・かはら・つぶてのわれらなり」(唯信鈔文意)というものがあります。「いし・かはら・つぶて」とは、そこら辺に落ちている石ころのことを言います。石ころが私たち?一体どういうことなのでしょう。

 実はこれ、単なる石ころの話ではありません。「あってもなきに等しいもの」「誰からもその存在を無視されたもの」のことを石ころに譬えられたのです。私たちは石ころに一々注意を払ったり、その存在を意識することはありません。同じように、社会からそして仏教からも疎外され存在を無視された、底辺に生きる人々があったのです。親鸞聖人は阿弥陀様の光を通して、そんな人たちのいのちの輝きを見出し、共に生きる「われら」と名のられたのでした。
 続けてこうも言われます。「いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり」まさに阿弥陀様のはたらきは、石ころを黄金に変えるように、私たちのいのちを輝かせる教えなのだと。

 では、私は自身の輝きを見出しているのでしょうか。周りのいのちの輝きを見抜いているのでしょうか。卑しい見方をしていることにも気がつかない。そんな深い迷いの中にいることを、まず自覚しなくてはならないようです。■