2016(平成28)年5月


 奥歯が痛くなりました。昔、歯を抜いた後にかぶせたブリッジの、支えになる歯の部分が軽い歯槽膿漏になっているのが原因のようです。カバーをとるのは大変なので、しばらく様子を見ようということになりました。できるだけ悪化させないようにと、素人考えで歯槽膿漏の原因となる歯周病菌を殺菌するうがい薬を買ったのですが、歯医者さんから「あまり使いすぎるのは、よくありませんよ」と指導されました。何事も、やりすぎは良くないようです。

 ところがある本を読んでいると、近頃は歯周病菌の中に、免疫力を高める働きがあることがわかったということが書いてあったのです。歯周病菌だけを培養して、そこからもしかすると癌に効く薬ができるのではないかと、研究が進められているのだとも。とにかく「歯周病菌をやっつけねば」「こんなものいらない」と思っていた私には驚きでした。歯医者さんも、このことを言われていたのでしょうか。いらないものだと思っているものの中に、実は大切なものがあるのだと教えられました。

 免疫学の権威・多田富雄博士は「O−157による食中毒のように、昔はなかったことが起こるのは何故でしょうか」という質問に「最近の子どもは手を洗うからです」と答えられたそうです。清潔にすることで、いろんなものを拭い去ってしまう。そのため、人体の中に本来あるはずの多様な免疫のシステムというものがどんどん退化したからだと言われるのです。その結果、ちょっとしたきっかけで、病気にかかりやすくなってしまったのだと。
 私たちは「いらない」ものは切り捨て、思い通りの快適さを求める生き方をしてきました。しかし「いらない」という判断自体、私たちの思いが及ばないだけなのかもしれません。安易に捨て去ることで、大切なものまでも捨ててしまっているように思えます。


 人生には、様々な苦しみが襲い掛かってきます。老いや病い。死もそうです。愛しい人と別れなくてはなりませんし(愛別離苦)、嫌いな人と会わなくてはなりません(怨憎会苦)。欲しいものは手に入りませんし(求不得苦)、この身体を持つがゆえに苦しみは起こるのです(五蘊盛苦)。
 苦や不快を切り捨て、快適さを求めることで、私たちはたくさんのものを失ってしまったのではないでしょうか。都合のよい人間関係を求め、近所や親戚との付き合い、地域との関わり合いを避ける社会ができあがりました。特に近頃の若い人たちは、傷つきたくないからと人と接することを避け、感情を押し殺すことで、コミュニケーションする力が育たなくなったことが社会問題にまでなっています。苦をまぬがれようとすることで、逆に苦しみは深まることがあるのです。

 しかし苦も不快も、それがあるからこそ人生と言えるのではないでしょうか。老いや病いを縁として、大切なことに気づかれた方があります。死と向き合う中で、尊い生き方をされた方もあります。別れを通して成長し、嫌いな人から学び、思い通りにならない人生を受け止めることで、かえって豊かに人生を生き抜かれた方もありました。悩むからこそ人生は深まるのです。そんな先輩方の歩みを、古臭いと切り捨ててしまってはいないでしょうか。


 ある浄土真宗系列の高校で、三年間の仏教の授業を終えた後、一人の学生がこう言ったそうです。「悩むことは素晴らしい。私は親鸞聖人の生き方を通して、そのことを学びました。」と。親鸞聖人が苦悩を通して出遇われた豊かな世界と、彼は出遇ったのでしょう。やはり、苦をまぬがれるには、その苦を生かしていく道を学ぶしかないようです。阿弥陀様に導かれ、育てられ、励まされながら、私の先を歩んで下さった方があった。そのことが、私に生きる勇気を与えて下さっています。■