2017(平成29)年1月

今月の言葉は、ビートたけしさんの詩集『僕は馬鹿になった』に掲載されている詩の一節です。







 アメリカのアイオワ州立大学で、ディットマーという生物学者が、こんな実験をしたそうです。小さな四角い箱をつくって、その箱の中に砂を入れて、一粒のライ麦を育てます。四カ月育てると、苗が育ってきます。色つやも悪いし、実もたくさんついているわけではありません。


 ディットマー博士は、そのひょろひょろとしたライ麦の苗が四カ月育つために、一体どれだけの根が土の中に張り巡らされているかを計算しました。目に見える根はもちろん、産毛のような根も全部顕微鏡で計測して根の長さを全部足すと、約一万一千二百キロメートルになったというのです。たった一本の苗がひょろっとした命を支えるために、一万キロメートル以上の根を砂の中に張りめぐらせて、いのちを支えている。生きてあるということは、実はそれだけの目に見えない力によって支えられているということを、改めて感じさせるすごいレポートです。(『人生という奇蹟』五木寛之 より)

 

私たちは「勉強ができる」「スポーツができる」「仕事ができる」ということを、生きる資格のように考えています。できないことに劣等感を感じ、できなければ生きている意味がないかのように思わされています。しかし、今ここに生きていることは、簡単なことではないのです。様々なはたらきの中に生かされ、今私がここにある素晴らしさを私たちはどれだけ感じているでしょうか。

 

 考えてみれば、近頃は法事が軽く扱われるようになりました。特に、直接知らない昔の先祖の法事などは、負担にしか思われないような時代です。しかし、知らなくても、目には見えなくても、深くて長いいのちの歴史があるのです。一万キロメートル以上の張りめぐらされた根が、ひょろひょろとした一本の苗を支えているように。法事とは、まさしくそんな私を支えて下さる世界と出遇う大切なご縁といえるでしょう。そんな根っこがあることに、驚き感動することがなかったら、私のいのちも、周りのいのちも、どんどん軽く扱われてしまうのかもしれません。