2017(平成29)年10月  



  元々うっかり者で、忘れ物やミスの多い私ですが、50歳を過ぎて、特にもの忘れがひどくなりました。さっきまで「これをしなくてはならない」と、強く思っていた用件を「あれ、何だったけ?」と思い出せないことが日常茶飯事です。
 でも、私はそれを嘆いているわけではありません。おかげで、とても仕事が早くなったのです。
 「今やっておかないと、絶対忘れる」と思うから、すぐに仕事に取りかかる。すると、手早く終わらせることができる。
 忘れっぽくなったことで、逆に仕事量が増え、失敗も少なくなりました。「後でやっておけばいいや」「いつでもできる」という思いは、今の私にとって、慢心でしかありません。


 陸上競技のスタートの合図を知らせるピストルには、微量の火薬を詰めた金属管である雷管が使われます。世界陸上の400mハードルで銅メダルを獲得した為末大さんは、その雷管の箱に書いてあった言葉に興味を持ち、座右の銘のように使っておられるのだとか。
 それは「危険であることを認識しているうちは安全である」という言葉です。
 危険だと思うから、注意する。だから危険だと思っているうちは安全だけれども、気を抜いて大丈夫だと思った時に、本当の危険が訪れる。あやまちを繰り返してきた私にとって、とても共感できる言葉です。

               

 ギリシャの哲学者・ソクラテスは、「無知の知」真の知への探求は、まず自分が無知であることを知ることから始まるのだと言われています。
 大丈夫、知っている、わかっているという思いが、あやまちを繰り返していくのでしょう。同じところをグルグルと回っている。そんな有り様を仏教では「迷い」と言うのです。まずは、あやまちを繰り返す私であると気づくことからしか、何も始まりません。

 迷いの自覚があるからこそ、道を求めるのです。つまり、道を求め始めたということは、既に仏様の智慧に導かれた歩みが始まっているということでもあるのです。深く受け止めなくてはなりません。

愚かにして愚かさを知るのは、愚かにして賢いと思うよりまさっている。
                            (『法句経』) ■