2017(平成29)年11月  



 

 便利な世の中になりました。パソコンはある、携帯電話はある、自動車もあるし、飛行機もある。自動で洗濯から乾燥までしてくれますし、掃除してくれるロボットまで市販されています。これだけ便利な世の中になって、私たちの生活にゆとりができ、心豊かになったかというと、残念ながらそうではありません。いつでもどこでも呼び出されるような世の中になりました。できることが増えたことで、やらなくてはならないことも増えました。世の中全体がスピードアップすることで、イライラ度は増しています。まさに、物を使っているのか、物に使われているのか、よくわからないような時代に、どうも私たちは生きているようです。


 私はここ数年、TVやスマートフォンのゲームから距離を置くようになりました。ゲームを遊ぶのは良いのですが、ゲームにもてあそばれているような気がするのです。暇つぶしにするのは良いのですが、気がつけば、一生が暇つぶしに終わってしまいそうで。
 こんなことを言うと、「何をしようが、それぞれの自由ではないか」という反論もあるかもしれませんが、仏教ではそれを自由と言わないのです。煩悩に縛りつけられて、身動きが取れない状態だと言います。ゲームだけではありませんよ。賭け事に縛られている人もいれば、お酒に縛られている人もいる。怒りや不満、お金儲けや名誉、権力。様々なものに縛られて、自分を見失ってはいないでしょうか。そういう私も、「あれが欲しい」「ここに行きたい」「これをしなければ」と、それが本当に求めるべきものなのかも考えずに、暮らしています。もしかすると、自分を見失っていることにすら気づけていないのかもしれません。

 

 現在、世界ではAI(人工知能)の研究が進んでいます。「今日は、何を着ていくか」「どこに旅行に行くか」「外食プランは」など、仕事に限らず、日常生活の様々な相談にAIが乗り、アドバイスをくれるサービスが既に登場しているのだとか。
 しかし人工知能が発達することで、とても便利な世の中になるかと思いきや、何と多くの仕事がAIやロボットに取られてしまい、失業者人が増えていくと指摘されているのです。2030年には、全世界の雇用の半分、約20億人の雇用が消えるのだとも言われていますし、国立情報学研究所の新井紀子教授は、「人間と人工知能が同じことをしたら、人工知能のほうが、仕事が早くて正確で、お金もかからない。いろいろな仕事はロボットに代替されてしまう」(『Educo』No.40)とまで言われています。人間の暮らしを豊かにするはずの研究が、人間の仕事を奪い、尊厳を奪っていく。文字通り「物に使われる」時代がやってくるのです。

 ならば、研究しなければいいのにと思うのですが、「知的好奇心」「人類の可能性」、何より「経済成長のために」と、どんどん進められています。

 原爆の研究開発も、同じであったように見える。物理学者ファインマンの著書などを読むと、開発に加わった科学者たちが、面白い問題の解決としていかに喜々としてそれぞれの研究に励んだかが伝わってくる。技術が持つ他の面について考えるのは、彼らの仕事ではない。開発が終わった後で、多くの科学者たちが大変なものを作ってしまったと恐れ、あきれ、その使用阻止に走るのである。
(『時代の風 科学技術の発達』総合研究大学院大教授・長谷川眞理子 毎日新聞2017年1月29日)

 
 世の中が便利になり、「できる」ことが増えた時代です。しかし、「できる」ということにもてあそばれ、煩悩に縛られて、自分を見失っている時代でもあります。だからこそ、「できるけれども、あえてやるべきではない」というブレーキも必要です。それには、謙虚に自らを振り返らなくてはなりません。そうでもしなければ、自分を見失っていることにも気づくことができないのですから。

 今こそ自分の生き方を見つめながら、「求めていく」方向から、「既に恵まれているものに気づく」「足ることを知る」という方向へと、向きを変えていくべきではないでしょうか。仏教という教えは、長い歴史を通して、そのことを私たちに指し示して下さっています。■