2017(平成29)年2月




 春先のある日のこと、玄関から「ごめんくださ〜い」と声がしました。出てみると、「納骨堂の1階の扉を開けたままにしていたら、ツバメが入ってしまい、出ていかなくなってしまった」とのこと。うちの納骨堂は階段が吹き抜けになっていますから、ツバメは2階に上がり飛び回っています。
 2階のベランダの扉を開ければ出てくれるだろうと思っていたのですが、扉の上にあるはめ込みのガラス戸に当たっては落ち、当たっては落ちを繰り返すばかりで、なかなか出ていってくれません。
 少し視点を変えれば、広々とした自由な世界が広がっているのにも関わらず、目先のガラス越しの景色に捉われて出ていけない。そんなツバメにイラッとしながらも、ハッと気づかされたのです。これって、私たち人間の生き方と同じではないかと。

 

私たちは、「こうしたい」「こうでなくてはならない」「こうすべきだ」という思いに縛られて、苦しんではいないでしょうか。少し視点を変えれば、広々とした自由な世界が広がっているのにも関わらず。特に近頃は、目先の「役に立つか立たないか」「損か得か」「好きか嫌いか」という自分の都合を優先する時代ではないでしょうか。でも、目先の「役に立つか立たないか」に捉われると、自分が役に立たないと思ったら、生きていけなくなりますよ。
 阿弥陀如来という仏様は、私の都合(願い)をかなえて下さる仏様ではありません。「あなたの願いは、あなたを本当にしあわせにするのですか?あなたは、あなたの願いに縛られて、かえって苦しんでいるのではないですか?」と、私たちに問いかけて下さる仏様なのです。

 考えてみれば、近頃は「自由」を求める時代になりました。でも、自分の都合よく、思い通りにすることを、仏教では「自由」とは言いません。それは、煩悩に縛られているだけのこと。お金に縛られ、賭け事に縛られ、スマホに縛られ、ゲームに縛られ、便利さに縛られている。かえって、息苦しい生活になってはいないでしょうか。
 目先の都合という枠組みが、かえって自分を苦しめていくのです。その枠組みを揺さぶることで視点を変え、広々とした世界を指し示して下さる。それが、仏法のはたらきなのです。■