思想家で武道家の内田樹先生が、「日本の雑誌・週刊誌の売り上げが落ちる一方ですが、それはインターネットの普及が原因ですか?」という質問に対して、「批評性と攻撃性を、どこかで混同したときから、日本のジャーナリズムはダメになった」と指摘しておられます。
内田先生の言われる「批評性」のある書き物とは、読んでいるとこちらの頭が揺さぶられて、目の前の霧が晴れて、頭の中の風通しがよくなって、なんだか生きる元気が湧いてくる・・・、読んでいる人に生きる力を与えるようなもののことだと言われます。
ところがいつしか、相手を論破し、黙らせ、ねじ伏せ「攻撃」することが「批評性」だと勘違いされるようになってしまった。相手を馬鹿にし、せせら笑い、弱みにつけ込んで徹底的にいじめる。周りの生きる力を削いでいく。そんな記事ばかりでは、読んでいてしんどくなってきます。
「日本の雑誌は、とにかく意地が悪いと思う。読んでいると、日本って、政治もダメ、経済もダメ、メディアもダメで、社会は隅から隅まで厭な奴ばかりバカばかりで、いいことなんか何もないんだよな・・・ということがだんだん身にしみてくるわけだけど、そんなことをしていったい誰が得をするのか。だれが喜ぶの、と思う。だから、雑誌の部数がどんどん減ってくるのは当然だと思う。読んでて気が滅入るんだもの」
(『内田樹の生存戦略』内田樹)
確かに、「人を馬鹿にする」「見下す」「貶める」「やる気を削ぐ」言葉が、今ほど飛び交っている時代は、これまでなかったのではないでしょうか。ワイドショーでは、タレントを持ち上げては、貶めて、攻撃して、爽快感を得るというパターンが、いつまでも繰り返されています。いや、貶めるために、持ち上げているのかもしれません。確かに、それはとても簡単に爽快感を得ることができますからね。そしてそれは、インターネットの世界で増幅され、私たちの日常にも溢れ出しています。
そんなことを繰り返しても、ちっとも人生は豊かにはならないでしょう。17世紀フランスのモラリスト、ラ・ブリュイエールが、「あら探しをして悦に入っていると、ささやかなものに感動する喜びは失われてしまう」と言ったと聞きましたが、まさにその通りだと思います。それは生きるということにおいて、とても大きな欠陥・欠点ではないでしょうか。
私にとって仏法とは、頭が揺さぶられ、目の前の霧が晴れ、頭の中の風通しがよくなって、なんだか生きる元気が湧いてくる、そんな教えなのです。「あら探しをして悦に入っている」私の愚かさや欠点に目覚めさせ、本当に求めるべきものを、指し示して下さる「よりどころ」なのです。
わずかな歩みではありますが、日々導かれ、深められ、育てられています。■
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