2017(平成29)年5月




 「偉い」と「尊い」は違います。「偉い」とは、普通より優れているとか、社会的に高い地位にいることを表すようですが、そこにはどうしても、「人を見下す」という上下関係があるように感じられます。一方、「尊い」とは、そのものに価値があることを表します。どちらが上か下かではなく、そのものに輝きが見いだされたときに、使われる言葉ではないでしょうか。


 「お客様は、神様です」というフレーズを聞くと、2001年に逝去された昭和を代表する歌手・三波春夫さんを思い浮かべる方は、まだまだ多いのでは。ところが三波春夫さんのオフィシャルサイト(インターネットのホームページ)には、この言葉が三波さんの真意とは違う意味に捉えられていることを、悲しむ一文が掲載されています。


 例えば買い物客が「お金を払う客なんだからもっと丁寧にしなさいよ。お客様は神様でしょ?」と、いう風になるようです。そして、店員さんは「お客様は神様です、って言うからって、お客は何をしたって良いっていうんですか?」という具合。俗に言う“クレーマー”には恰好の言いわけ、言い分になってしまっているようです。
                      (三波春夫オフィシャルサイトより)


 三波さんは、「お客様は神様です」という言葉が流行った背景には、人間尊重の心が薄れたことがあったのではないかと言われています。尊重の心が薄れたからこそ、逆に、周りの人を「神様」のように敬い尊んだ三波さんの態度が共感されたのだろうと。ところが今や、人を見下すためにこの言葉が使われている。それは、三波さんも悲しまれるところでしょう。



 以前、こんな笑い話を聞きました。

 ある店で、店員に無理難題のイチャモンをつけ「客は神様だろう!」と怒鳴っていた客がいたというのです。すると店員は、見事な切り返し。
「申し訳ございませんが、他の神様のご迷惑になりますので。」

確かに「お客様が神様」なら、あなただけが偉いのではありません。みんなが尊重されなくてはならないでしょう。何より、我がままの為にこの言葉を使うということは、あなたを尊ぶ根拠を、あなたが壊しているということ。つまり、自分を貶めていることでもあるのです。

             
      
 私は、宮城 先生という先生からいただいた

 念仏者とは、一切の衆生(すべてのいのち)、一切の人間を、
「御同朋」(共に、阿弥陀様から願われた仲間)として見出していく、
そういう心をたまわった者であり、そういう歩みを開かれた者である。
                       ※( )内の訳は、住職
という言葉を、とても大切にしています。

 他国籍の人でも、他宗教の人でも、意見の違う人でも、大嫌いなヤツでも、阿弥陀様から見ればすべていのち尊い存在。そんな阿弥陀様のものの見方をいただいて生きるのが、念仏者であるのだと。

 これは、念仏者になれという押し付けではありません。私の態度・生き方のお話です。
 阿弥陀様の眼から見れば、すべてのいのちは皆「尊い」存在だと願われているのです。では、私はどんな生き方をしているのか。気づけば「偉く」なり、いつしか人を見下すことをしているのかもしれません。それは阿弥陀様の心から、最も遠い心だと言えるでしょう。



 阿弥陀様の別のお名前を、そのはたらきから「施眼」、眼を施すと言われます。阿弥陀様を通して、周りの方と出遇う。自らと出遇う。そのことが自分自身の人生を、本当に尊いものにしていくことなのだと教えられるのです。■