2017(平成29)年7月





 私は最近、「形」の大切さということを、取り戻さなくてはならないのではないかと考えています。私たちはこれまで、「形よりも心」だと、形を崩し、おろそかにしてきました。しかし同時に、形が失われることで、そこに込められた心も失われてきたようにも思うのです。


 たとえば最近、ご飯を食べる時に、「いただきます」「ご馳走さま」が、聞こえなくなりました。ラーメン屋やファーストフード店では、まずお目にかかることはありません。
  「いただく」とは、頭の上に置き拝むということです。「ご馳走さま」とは、たくさんの方々が走りまわって下さることで、このご飯が用意されたのだという感謝の思いが込められた作法です。  何より、「ご飯」ですよ。「飯」という字に、わざわざ丁寧に「ご(御)」をつけている。これは、我がいのちが今日も養われるという深い意味を、一杯のご飯に発見したからこそ、このような丁寧な言葉と形ができあがり、伝えられているのでしょう。ところが、「そんなことは、わかっているよ」と頭だけでわかった気になり、形を失うことでその心まで見失われてはいるのではないでしょうか。

 確かに、ご飯を作ってくれた人には感謝するし、おごってもらったら感謝する。しかし、「いただきます」「ご馳走さま」とは、そんな目に見えるだけの薄っぺらな世界への感謝ではありません。自分の思いを超えた大きな世界に支えられ、生かされていることへの大きな驚きと、深い感動が込められた言葉なのです。
 形があるからこそ、心が伝わるのです。形があるからこそ、迷った時に立ち戻ることもできるのです。

  2012年に亡くなられた十八代目中村勘三郎さんは、
「型があるから、型破り。型がなければ、形無し」
と言われたとか。現代社会はまさに型(形)を見失うことで、大切なことを見失い、「形無し」(散々な。目も当てられないさま)な時代になってはいないでしょうか。

 私たちの先輩方は、手を合わせ、お念仏を称えることで、お念仏に込められた阿弥陀様の心を味わってこられました。まさに形を通して、育てられたのです。

             

 漫画家の西原理恵子さんは、「子どもを悪口の壺の中に漬けてはいけない」(『生きる力ってなんですか?』おおたとしまさ)と言われています。人の悪口を子どもの前で言うと、必ず同じように育つ。殴られて育った子どもは、必ず殴る大人か殴られる大人になる。虐待や貧困の連鎖はそうして続きます。
 ならば、悪口を言うよりも、お念仏称えませんか。人を殴るよりも、手を合わせませんか。「形だけやって、何になる」なんて言わないで。称えながら、手を合わせながら、お念仏に込められた阿弥陀様の願いを味わい、噛みしめる。形を通して、忘れていた大切なことを思い出す。形を通すからこそ、伝えられた心と出遇うこともあるのです。敬いの「形」に漬けられることで、心豊かな連鎖も続けられるのではないでしょうか。

 「形」を通すからこそ、開かれる世界があることを、今こそ取り戻すべきだと、強く思っています。■