「話し合い」の同義語(意味を同じくする語)として、「議論」「討論」「対話」というものがあげられます。
「議論」「討論」と言えば、『朝まで生テレビ』『ビートたけしのTVタックル』を始めとする数々の討論番組がありますが、最近どうも見る気がしなくなったというか、見るのがつらくなってきました。人の話を折り、割り込み、切り捨てる。他人の話は聞かず、自分の意見だけを言いつのり、どれほど反する証拠が示されても自説を絶対に撤回しない。マナー知らずで傲慢な罵り合いを、見ようという気持ちになれないのです。
このようなスタイルを、ディベートと言うそうです。ディベートが流行り出していた頃、私も経験したことがありますが、当時は、立場を変え、反対意見に立って討論したりと「相手の立場で考えることで、多角的な視点を学ぶもの」として紹介されていたはずです。
それがいつしか「相手をいかにやり込めるか」という技術を学ぶものへと変わり、今やこの有り様となってしまいました。とても悲しいことです。
先日、NHKで新世代による討論番組『日本のジレンマ』を見ていました。
その冒頭で批評家の大澤聡さんが、「ディベートとは、討論をしても自分の意見が変わってはいけないもの。でも、ダイアローグ(対話)は、自分の意見が変わっていい。いや、変わる方が大切だ。この空間はディベート(舌戦)じゃない、ダイアローグだよね?」といった発言をされていました。凝り固まった意見をぶつけ合うのではなく、人の意見に触発され、世界が広がり、見方が深まり、むしろ意見が変わることが大切なのだという発言に、まさに「我が意を得たり!」と膝を打ちました。
この世には、絶対に正しい意見などありません。絶対に正しい人もいないでしょう。にも関わらず、「俺は正しい」「アイツは馬鹿だ」と罵り合ってはいないでしょうか。それは「話し合い」ではなく、「押し付け合い」です。私自身、深く反省させられるところなのですが。
ダイアローグは、「対話」と訳されます。哲学者の鷲田清一さんは、「ダイアローグを通じて考えを変える」とは、無節操に自説を曲げることではない。自分の考えを絶対視せず、別の視点・他者の視点からも考える複眼的な柔軟さを持つこと」(『パラレルな知性』鷲田清一)だと言われています。そこにこそ、冷静に相手の立場を気遣いながら、説得したり、折り合いをつけたり、学んだりという、敬意・尊重が生まれてくるのでしょう。やはり本当の「話し合い」とは、聞き合うことからしか始まらないのです。
もしも私が全て正しくて とても正しくて 周りを見れば
世にある限り全てのものは 私以外は間違いばかり(中略)
辛いだろうね その一日は 嫌いな人しか 出会えない
寒いだろうね その一生は 軽蔑だけしか 抱けない
『時代』『糸』など、数々の名曲を生み出される中島みゆきさんの『Nobody is Right』という歌の一節です。自分の正しさを絶対視するならば、同調する人は味方で、後は敵。意見がすれ違えば、味方も敵になる。そうなると、もう「嫌いな人しか 出会えない」「軽蔑だけしか 抱けない」、とても寒い人生になってしまいます。この世には、味方と敵しかいないというのは、あまりに薄く浅いものの見方でしょう。学び合い、深め合う豊かな出遇いがあるのです。
浄土真宗では、「聞く」ことを、とても大切にします。「聞く」ということは、「私はいつも正しいわけではない」という謙虚な姿勢からしか始まりません。
何より親鸞聖人が一生を通して貫かれた態度は、「竊(ひそかに)に以(おもん)みれば」(『教行信証』総序・後序)ではないかと思うのです。これは、「わたしなりに考えてみると」と訳されますが、堂々と言い切ることへの躊躇いと謙虚さが感じられます。真実は、あくまでも阿弥陀如来にしかないのだと。
そして、「仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに」(『教行信証』信巻)仏さまの心は私にはとても測ることができないが、阿弥陀様のお心を私なりに受け取ってみると・・・という謙虚な態度が、凡夫という立場に在り続けられた親鸞聖人の生き方であり、だからこそ生涯を通して「聞く」ことに徹していかれたのでしょう。それは、聞いても、聞いても、聞ききれないほど広大無辺の世界と出遇われたということの裏返しでもあります。
ですから浄土真宗では、親鸞聖人のことを教祖とは言いません。「我こそ真実だ」と言えないのが、この教えなのです。教えに出遇うほどに、謙虚に頭が下がる。自らの小ささを知るからこそ、支えて下さる大きな世界との出遇いが開かれる。そんな聖人の「聞く」という歩みが、私を導いて下さるのです。
何より、「我こそ真実」と言う人には注意した方が良いですよ。いつしか絶対的服従の強要が始まり、気がつけば言いなりの人間になることを求められますから。■
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