2017(平成29)年9月




ある人がご飯屋で食事をしていたときのこと。隣の席の学生が、友だちと話していたのが聞こえてきました。彼は最近、一人暮らしを始めたらしいのですが、部屋を決めるにあたって、周囲にどんな人が住んでるのかとても不安だったというのです。そこで彼は、何をしたのか。候補にあがったアパートの周辺住人の郵便物を盗み見て、名前をSNS(インターネット上で、日記やメッセージなどを通して、様々な人たちと繫がるサービス)等で調べ上げました。そして、危なそうな人がいないことを確認した上で、安心して契約したことを、友だちに雄弁に語っていたというのです。
 話を聞いていた人は、ゾッとしたといいます。なぜなら、こっそり人の郵便物を盗み見て、ネットで調べてって、お前が一番危ないだろう。そもそも自分がその危なさに気付いてない。それが一番恐ろしい…。
 私たちが知らないのは、実は自分自身の姿なのかもしれません。自分の危なさはさておいて、周りに対し警戒し、怯え、身構えているのかも。そうして周りを危険視している自分はどうなのかという思いを、どこかに持っておく必要があるのではないでしょうか。


 アメリカでは、毎年のように銃の乱射事件や銃による犯罪が起きています。誰もが簡単に銃を買えることが問題なのではないか。銃を規制すべきでは、そんな声も上がっています。アメリカが銃社会であることには歴史的な背景もあるので、一筋縄ではいかないようですが、全米ライフル協会副会長を勤めておられた方の「銃を持った悪人に対抗できるのは、銃を持った善人だけだ」という発言には驚かされました。ここに大きく欠けているのは、「そもそも、自分は善人なのか」という視点です。現実に、誤射や過剰防衛の方が、銃で脅かされるよりも、はるかに多いのですから。
 自らの悪や罪に対しての自覚がなければ、ブレーキはかかりません。悪いと知りながら、あえてする罪は重いことではありますが、知らずに犯している罪は、自覚がないだけに、止めどもなく深く相手を傷つけ、自らを貶めるでしょう。特に、周りを危険視しながら、自分の危険性を見失ってしまい、正義をかざし始めると、もう突き進むしかありません。

「自衛の意識は簡単に肥大する。解釈次第でどうにでもなる。かつて日本が戦争の大義にしたのは、欧米列強からのアジアの解放だ。ナチスドイツによるポーランド侵攻は祖国防衛が名目だった。ユダヤ人の駆逐はゲルマン民族を守るため。そもそもブッシュ政権のイラク侵攻も、大量破壊兵器を持つテロリストから世界の平和を守ることが大義だった。
 人は自衛を大義にしながら人を殺す。」

               (『すべての戦争は自衛意識から始まる』森達也)


 自分だけが正しくて、人は間違っているという考え。自らを過剰に評価し、思い上がる姿を、「慢」と言います。仏教が教える煩悩の一つです。自らに捉われ人を軽んじることは、迷いを深め、他を損ない、自らを損なうことになるのだと教えられているのです。自分の危うさ、愚かさ、至らなさと向き合うからこそ開かれる世界を、示して下さっているのです。


 東京大学名誉教授で宗教学者の島薗進先生は、人間は、人生において自らの限界に向き合わざるをえない現実を突きつけられた時に「いのちの痛み」を感じる。宗教とは、その「痛み」を機縁として、「限りある人間のいのち」を超える尊いものとの出遇いを促すものだと言われています。
  
  いつまでも生きていくことはできないという「死」の現実。
  いつも、いつまでも強い自分ではいられないという「弱さ」。
  人生は、思い通りにはならないという「苦難」。
  そして、自分はいつも正しいわけではないという「悪」の自覚。

 そんな「死」「弱さ」「悪」「苦難」という自分の人生の現実に直面した時、それを機縁として「人間のいのち」を超える尊い世界との出遇いが開かれる。その出遇いを促すのが宗教なのだと。「いのちの痛み」を感じた時こそ、自分の思いを超えた世界に生かされ、受け容れられ、許されている姿に気づかされる。「いのちの恵み」や人生を生き抜く勇気を感じることができるのだと言われるのです。
        (『宗教を物語でほどく~アンデルセンから遠藤周作へ』島薗進)

 確かに親鸞聖人のご一生は、限りある人生の現実と向き合う中で、「悪人」「愚者」の自覚を持ちながら、阿弥陀様の恵みである「他力」と出遇われた、尊くも豊饒なる歩みだったと言えるでしょう。

 自分自身の本当の姿を見つめることは、「いのちの痛み」を伴います。しかし、向き合うからこそ「いのちの恵み」を感じ、本当の人生を歩むことが始まるのだと、親鸞聖人の生き様から教えられるのです。同時に、本当の姿から目をそらす生き方は、迷いを深める生き方なのだということも。■