2018(平成30)年10月




 

あるスキー場に、こんな看板があったそうです。
 「ころぶな!!」
 …誰も、ころぼうと思って、ころんでいるわけではありません。いくら注意しても、ころぶときはありますし、私のような経験も浅く、下手な者はころぶのです。それを「ころぶな!!」と言われてしまうと、身も蓋もありません。「スキー場に来るな!!」と言われることと同じです。

 近頃は、人間が本来持っている愚かさや弱さへの配慮がなくなってはいないでしょうか。強さ賢さ正しさばかりが求められ、失敗に対して冷たく厳しい社会になっているように感じます。間違いを起こした人への社会的制裁は、行き過ぎではないかと思うほど過激です。生活保護受給者へのバッシングをはじめ、弱い立場の人へのまなざしも、どんどん冷たくなっています。2016年に起きた相模原市での障害者殺傷事件は、その最たるものでしょう。

 最近の若い人たちが、少し怒られただけで会社を休んだり、辞めたりするのも、親の過保護だけではないのかもしれません。失敗した人たちへの冷たい仕打ちを見ることで、「失敗してはならない」と恐れながら育ってきた。だから、小さなつまずきでも「もう、終わりだ…」と思ってしまい、立ち上がることができなくなっているのではないか。そんなことさえ思うのです。

 しかし人間ですから、気をつけても失敗します。なりたくなくても病気になりますし、一生懸命頑張っても結果が出ないときもあります。経験が浅ければ、尚のこと。そんな人間の事実を思いやることが、失われてはいないでしょうか。にもかかわらず、「失敗するな!!」と頭ごなしに言われては、身も蓋もありません。「生きるな!!」と言われることと同じです。そんな社会で生きようとすれば、自分の失敗は認められなくなります。あとは、人に責任を押しつけるしかありません。


 何より、自分の弱さを知っているからこそ、相手を思いやれるのではないですか。自分の愚かさを知るからこそ、人に大らかにもなれる。弱さを持った者同士が、お互い様と思いやりながら、励まし助け合いながら生きる方が、出遇いも広がり、豊かに生きることができるのではないでしょうか。
 日本を代表する随筆『徒然草』で、作者の吉田兼好は「友達にならない方が良いタイプ」をあげています。その中の一つに「病なく、身強き人」とあります。(『徒然草』第百十七段)なぜなら、体が丈夫で病気をしない人は、体が弱く病気がちの人の気持ちがわからないから。
 これは何も、「健康な人とは、友だちの縁を切れ」ということではないのでしょう。弱い立場の心がわからない、想像することもない人間になってはいないかという促しだと、私は受け止めています。順調な時にはわからない世界があり、つまずいた時にこそ気づかされる大切なことがあるのです。

 親鸞聖人も、人間の弱さや愚かさを大切にされた方でした。私は、親鸞聖人の生き方から「人間は失敗する。いや、失敗するのが人間なのだ。だから、開き直れということではなく、それをどう受け止めていくのかが問われるのだ」と教えられてきました。失敗してはならないのではなく、失敗やつまずきを通して見えてきたことを、どう活かしていくのかが大切なのだと。


 あるお寺で、定期的な法座がありました。そこでは講師が問いを投げかけ、それを参加者の人たちで話し合いながら考えていく「話し合い法座」という形式をとられていました。そこで講師から、「なぜ仏法を聴聞するのでしょうか」という問いが出されたのです。
 最初に、最近参加しはじめられた年配の方が、「私はこの頃、自分がもう少し善い人間になれたらと思って来ているのだが」と発言されました。
 すると、若い男性の方が、「それは無理です。そういうことなら、聴聞してもだめです」と言われたのです。年配の方はカチン!と来たのでしょう。怒った口調で「聴聞して、なぜ良い人間になれないのか。おかしいじゃないか。では、何のために聴聞するんだね」と問いただされました。そこで若い男性の方は、こう言われたそうです。
「私は、この会に来るようになって十年になりますが、聞けば聞くほど、自分の悪いことばかりがわかってきて、とてもじゃないが善い人間になることはできない自分に気づかされます。だからといって、開き直っているわけではありません。かえって、できるだけ悪いことはしないようにと、心掛けるようになりました」と。

 自分の悪いことばかりがわかる教えというのは、嫌ですね。誰も自分の悪口など聞きたくありません。しかし、この若い男性の方は、十年も法座に通われている。それは何故でしょうか。この方は、悪口を聞きに来るわけではないからです。
 自分の悪いことがわかるということは、日頃見落としていた大切なことに気がついたということでしょう。阿弥陀様の心を味わうほどに、「あっ、あれも見落としていた」「こんな失礼なことをしていたのか」と、自分の姿に気付かされる。今まで気づきもしなかった、失敗やつまずきを指摘される。しかしそれは、阿弥陀様の心を通して知らされた、大切なことなのです。若い男性の方は、大切なことを聞くために、十年間も通っておられたのだと思うのです。
 「大切なことを知らされた」と受け取るか、「悪口」と受け取るかでは、その後の人生は全く違うものになります。同様に、失敗やつまずきを、「恥ずかしいこと」として目を背けるか、「世界が広がるきっかけ」と捉えるかでは、世界の見え方が違ってきます。

念仏詩人・榎本栄一さんは、

「またひとつ しくじった  
     しくじるたびに 目があいて
           世の中すこし広くなる」

という詩を書いておられます。失敗やつまずきは、正直辛いことです。しかし、そこから大切なことに気づかされ、世界が広がれば、尊いご縁といただけるでしょう。

 「つまずいた石」が、やがて「踏み台」だと感じられるようになったとしたら、それは私の生き方が、少し広がり、豊かになったということなのです。目を背けては、もったいない。しっかりと、受け止めていきたいものです。■