2018(平成30)年11月



二つの大きな町に挟まれたオアシスに、一人の老人が座っていました。通りかかった男が老人に尋ねます。
「これから隣の町に行くのですが、この先の町はどんな町ですか?」
老人は答えずに聞き返しました。
「今までいた町は、お前にとってどんな町だった?」
男はしかめっ面をして、
「たちの悪い人間が多くて、汚い町ですよ。だから、隣の町に行ってみようと思ったのです」
と言うと、老人は、
「お前がそう思っているなら、隣の町も、たちの悪い人間が多い、汚い町だろうよ」
と答えました。

 しばらくすると、先ほどの男と同じ町から、別の男がやってきました。その男は、同じように老人に尋ねます。
「これから隣の町に行くのですが、この先の町はどんな町ですか?」
やはり老人は、答えずに聞き返しました。
「今までいた町は、お前にとってどんな町だった?」
男はにこやかに、
「親切な人が多くて、きれいな町です」。
と言うと、老人はこう答えたそうです。
「なるほど、お前がそう思うなら、隣の町も親切な人間が多い、きれいな町だよ」
                          (『ものの見方が変わる 座右の寓話』戸田智弘)

 同じ場所にいても、見える景色は捉え方によって大きく変わります。同じ人たちと暮らしていても、こちらの受け止め方で、印象はまったく違います。
 思い通りにならないからと、周囲に不満と不平を抱えている人は、どこに行っても「たちが悪い人間が多い、汚い町」としか感じられないでしょう。逆に、自分に向けられている思いや願いを味わい、恩を受けたと感じることができるなら、どこに行っても「親切な人間が多い、きれいな町」と受け止められる。見方、受け止め方で、生き方さえも変わってくることを教えられる話です。


 全国47都道府県で、どの県の人が一番幸せを感じているかを調べる、県民別幸福度調査というものがあります。内閣府や新聞社や大学、どこが調査しても、必ず上位に入るのが福井県、富山県、石川県の北陸三県なのだとか。相愛大学の金児暁嗣先生の調査・研究によると、中でも福井県民は「お陰さま」意識が非常に高く、日常的に「お陰さま」という言葉をよく使うのだそうです。
 「陰」とは、目に見えない、気づかない世界をあらわします。目に見えない世界に支えられ、生かされているという感謝の思いが、「陰」という字にわざわざ「お」と「さま」をつけて「お陰さま」という言葉になったのでしょう。この言葉を金児先生は、「他者への信頼と安心」をあらわしていると指摘されています。また、「不安な事態になった時に、しずめてくれる働き、緊張緩和の働きが認められる」とも言われているのです。        
                 (『大乗』2015年3月号「釈徹宗の隨縁対談」)


 では、どうして「お陰さま」意識が高いのか。実は、この三県は浄土真宗がとても盛んな地域なのです。浄土真宗は、阿弥陀様のはたらきによって救われていく教えです。目には見えない阿弥陀様のはたらきを受け止め、その恵みの中でご恩を感じ報いていく教えなのです。自分がしたことよりも、してもらっていることを大切にします。だから、私に向けられている思いや願いを感じるセンサーの感度も、自然と高まっていく。「お陰さま」意識が高まるはずです。金児先生も、浄土真宗の信仰と北陸の幸福度には、密接な関係があると指摘されています。


 ちなみに、世界で一番不幸な国とされているのが、東欧のモルドバ共和国です。この国は、トルコやロシアならびにソ連、ルーマニアの間で占領・併合が繰り返されてきました。その結果、この国の生活はほぼすべての面で、信頼と協力関係が失われてしまったと言われます。誰も他者の利益になるようなことはしない。自分のことしか考えられない。モルドバ人の意識は「私の知ったことではない」という一言であらわされるのだとか。             (『残酷すぎる成功法則』エリック・バーガー)

まさに、周りの人びとを「たちが悪い人間」としか見ることができない、旅の男のようです。こんな社会は、本当に生きづらいと思います。歴史に翻弄されてきたモルドバの人々にとって、まさに悲劇だと言えるでしょう。

 それでは、私たちはどんな生き方を求めているのでしょうか。してもらっていることから目を背け、人間関係をすべて煩わしいものとして切り捨て、「オレは人に迷惑をかけていない」「誰の世話にもなっていない」、そして「私の知ったことではない」と孤立を深める。そんな悲劇的な社会を、自ら求めているのではないでしょうか。
 目には見えないけれども、この私を支え、生かしてくださる世界があるのです。その世界に気づかれた先輩方の歩みが、「お陰さまと言える人生に孤独はない」のだと教えてくださっているのです。
 「お陰さま」の生き方に歩み出した姿を、オアシスの老人が見たら、きっとこんな声をかけてくれるのではないかと思います。
 
 「なるほど、お前がそう思うなら、隣の町も親切な人間が多い、きれいな町だよ」と。■


※ 仏教は「どんなに正しいことでも、偏ってはいけない」という教えです。今回のように、「してもらっていること、恵まれていることに目を向けよう」という提言は、偏ってしまうと「不平不満は言うな。黙ってすべて受け入れろ」と、他者の発言を頭ごなしに封じるような態度につながりかねません。そうなると、本当に苦しんでいる人たちの、悲しみの声まで踏みつぶしてしまいます。残念ながら、そのような文脈で使われた歴史もありました。注意したいものです。