お笑いタレントの清水ミチコさんが、デビュー前に小さな劇場で「芸」を披露していた時のこと。突然、永六輔さんが観に来られました。
名曲『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』の作詞をはじめ、放送作家、タレント、随筆家と、多岐にわたり活躍された永さんは、同時に、若い才能を発掘し、育てられた方でもあります。あのタモリさんも、永さんに見い出された一人です。
本番後、永さんは初対面にもかかわらず、清水さんを喫茶店に呼び出します。そこで、舞台上での立ち居振る舞い、お辞儀の仕方を教えられ、こう言われたそうです。
「君、芸はプロだけど、生き方がアマチュアだね」
永六輔さんは、清水ミチコさんの才能を見抜かれたのでしょう。しかし、芸人としてどんなに優秀でも、もっと基本の部分にこだわらなくてはいけないのだと。
「職業に貴賤はないけれど、生き方に貴賤はある。職業はやめられるけど、生きることはやめられない」
仕事を極めても、仕事が変わったらそれまで。しかし、自分の生き方は一生もの。だから仕事での能力や実績よりもまず、一人の人間としての振る舞いに「プロ意識」を持つべきだと諭されたのです。
永さんは、こうも言われていたそうです。
「僕は職業が永六輔だから/僕にとっての職業というのは、「生き方」といってもいいのかもしれない」(『大遺言』永拓実)
私たちは、一人の人間としての振る舞いに、生き方に、「プロ意識」を持っているでしょうか。「どう生きているか」を見つめているでしょうか。
お釈迦様の言葉には、
頭髪が白くなったからとて「長老」なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。(『ダンマパダ』260)
誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。(『ダンマパダ』261)
とあります。厳しい言葉です。胸に突き刺さってくるようです。
東京に、有名人や著名人を多く看取られる病院があります。そこに入院された元政治家の方は、看護師さんに「〇〇さ〜ん」と名前で呼ばれると、「なんて失礼なヤツだ!」と怒られていたというのです。「では、何と呼べば良いのですか」とたずねると、「先生と呼べ」と。どこまでいっても、政治家と言う肩書きにこだわられた方だったようです。
肩書は、たとえるならば服のようなもの。どんなに着飾っても、高価なアクセサリーをつけても、人間最後は裸で死んでいかなくてはなりません。老い、病み、死んでいく中で、一つ一つ肩書きを剥ぎ取られていくのです。どれだけ生きようが、何をしようが、肩書をすべて剥ぎ取られた時に、どんな自分がそこにいるのか。死を前にしたとき、人生は厳しく問いかけてきます。
念仏詩人とよばれた榎本栄一さんは、
日の光に 照らされたら 私が着ているのは ボロ着物でございました
(『ボロ着物』)
という詩を書いておられます。実際にボロの着物を着ておられたわけではありません。まさに、阿弥陀様の光に照らされた時に、自分が着飾るように握りしめていた肩書きの虚しさに、気づかれたのです。
榎本さんは、お念仏と出遇い、自らを深く見つめられ、味わい深い詩を数多く書かれた方でした。中でも私が一番好きなのが、次の詩です。
こころはいつも下座にあれ ここはひろびろ
ここでなら なにが流れてきても そっと お受けできそう(『下座』)
榎本さんは、この詩についてこう語られています。
「地べたに坐っておる気持でございますな。高いところで、自分の力以上のもんを持たされたら腰抜かしますし、地べたでどっかと坐っておりましたら、自分の体重以上のもんがきても、「はい」というてお受けできると。ここよか下へ落ちるところがないとこが、自分の安息の場所で一番いいとこやないかいなぁと思うのでございます。落ちるところないとこ、少し高いとこにおったら、いくらかでも一段でも二段でも下へ落ちますが、これよか落ちようのないとこ、そこが一番安坐安住のところ」
(NHK「こころの時代」出演時 1992年)
榎本さんは、着飾るような肩書を「ボロ着物」と喝破し、地べたに坐るように生きられました。それは、阿弥陀様の大地に安坐安住された生き方でした。
突っかい棒が ひとつ またひとつ
ひとりでにはずれ いまは わがいのちひろびろ
さて これから (『いのちひろびろ』)
着飾ることも、突っかい棒もいらない世界がある。丸裸の私を受け止めてくださる阿弥陀様の大地にどっかと坐る。そして、周りのすべてを尊く仰ぐ。そこは安らかで、ひろびろとしている。
そんな生き方に、私はとても魅かれるのです。思わず手を合わせるのです。「そう生きたい」と、思うのです。
しかし榎本さんは、こんな詩も書いておられます。
うぬぼれは 木の上から ポタンと落ちた
落ちたうぬぼれは いつのまにか また 木の上にのぼっている(『木の上』)
どこまで行っても、着飾ろうとする私を、どうもお見通しのようです。お念仏を通して、常に常に、自分の生き方を問わねばなりません。■
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