2018(平成30)年2月




心療内科医の海原純子さんという方が、こんなコラムを書いておられました。
 北朝鮮情勢を意識したのか、今、アメリカでは核シェルターが売られているそうです。とはいっても、昔の防空壕というようなイメージとは全く違い、中は超高級ホテルのようにゴージャスで、ヤシの木が揺れる映像が流れ、波が起こるプールまで設置されたものもあるのだとか。しかも、それがすべて売れたというのです。購入した人も、売った人も、「準備をしておけば不安は減る」と言ったそうなのですが、それを聞きながら海原さんは、「これは、絶対におかしい」と思われたそうです。

なぜなら、核シェルターに避難できるのはわずかな人数、せいぜい自分と家族くらいなもの。そして、自分たちだけは安全な場所にいても、核戦争が起れば地上では空気が汚染され、多くの人や動物たちが死んでいく悲惨な状況になる。そんな時に、自分だけはそのすぐ下で、プールで泳ぎながら、平気でいられるのだろうか。もし自分がそんな状況に置かれたらと思うだけで、ぞっとする。何より、核で汚染された地球で、その後生きていけるのだろうか。だから、「早めの準備」というのはシェルターを造ったり売ったりすることではなく、核による争いがおこらないよう働きかけをすることなのではないかと。
 そして、こう続けられるのです。


また「助かる。生き残る」ことは単に体だけを安全な場におくことではない。深く傷つくであろう心についても考えてほしい。心が生き残らなければ人は生き続けることはできない。もしシェルターに避難する人のほとんどが、他者の痛みなど全く気にかけず、自分だけ安全ならそれでいいと思っていたとしても、そのなかに一人、傷つき心を落ちこませる人がいたら、その人の気分は周囲に伝わっていくものである。
 「結局人間は自分だけがよければいい」「いざとなれば他人を置いて本能的に逃げるものだ」という人もいる。それは確かだろう。しかし、命の危険を感じた時に他人を本能的に助けた方たちや、他人を救うため命を落とした方たちの話を、私は震災や事件、事故の現場でくり返しきいてきた。そしてそうした方たちの物語が心の中に刻みこまれている。また、自分だけ助かったため罪悪感にさいなまれ、自分を責める方たちとかかわることもある。準備とは何か。他者を傷つけずお互いを受け入れる心のあり方について考え、実践する以外にないだろう。
          (毎日新聞日曜版『新・心のサプリ』海原純子 2017年11月19日)



 「心が生き残らなければ人は生き続けることはできない」この言葉は、ズシンと響きました。私たちは、一体何を求めて生きているのでしょうか。便利な世の中になり、モノは豊かになりましたが、心は豊かになったのでしょうか。

 

 ある小学生の女の子が、不登校になりました。仮にA子ちゃんとしましょう。同じクラスで近所に住んでいるB子が、少し回り道になるけれども「A子ちゃん、一緒に学校に行こう」と声をかけに行くと、A子ちゃんは少しずつ学校に来れるようになったのだそうです。それが四、五日続きました。

ある朝、B子ちゃんを送り出そうとした母親が、学校ではない右方向に行くB子ちゃんを見て、
「どうしたの。あなた、学校は左でしょう」と尋ねると、

「A子ちゃんを誘いに行くの」
「どうして、そんなことをしなくてはならないの」
「A子ちゃんが学校にしばらく来れなかったから、声をかけにいって、一緒に行ってるの」と言ったのです。
母親は、怒って言いました。
「そんな余計なことする暇があったら、勉強しなさい。そんな他人のことを考える余裕はないのよ」
すると、今度は、そのB子ちゃんが学校に行けなくなってしまったというのです。

  (『人間の物差し 仏さまの物差し』久保山教善)




「人を押しのけてでも成績を上げる」これが、まさに現代社会に生きる私たちが求めているものなのでしょう。だからこそ母親は、それが娘のためだと思っているのです。しかし、A子ちゃんのことを思いやることで、B子ちゃんの心は豊かに成長していたのです。
 人を粗末にすることは、自分の心を粗末にすることになり、心を殺していく。心が生き残らなければ、人は生き続けることはできないのです。



 私たちは、どこに向かって生きているのでしょうか。何を大切にし、何を粗末にしながら生きているのでしょうか。
 阿弥陀如来という仏様は、すべての生きとし生けるいのちを尊び、救うという願い(本願)を建てられました。その願いを聞き、その願いに生きた人の歴史が、問いかけて下さっています。