2018(平成30)年3月




浄土真宗では葬儀や法事の際、阿弥陀様を中心にお参りします。ご遺体やお骨が中心ではありません。自宅でのお通夜の時など、お棺が脇にあっても、お仏壇の前でお勤めをします。一見、亡き人を粗末にしているように見えるかもしれませんが、そうではないのです。亡き人を本当に大切にするために、阿弥陀様を中心にお参りするのです。 

 以前、ご門徒のおじいさんが亡くなられた時のお話です。お孫さんをとてもかわいがっておられた方でした。葬儀の後、娘さんから相談を受けたのです。「おじいちゃんが亡くなってから、うちの息子が(おじいさんにとっては、お孫さんです)熱を出して寝込んでいます。おじいちゃんが迷っているのではないかと、心配なのですが…」と。
 気持ちはわかるのです。そんな不安を煽る情報が、飛び交っている時代ですから。でも、お孫さんのことを大切にされてきたおじいちゃんが、そんなことをされると思いますか?おじいちゃんは「オレのせいかよ!」と、怒られるのではないですか。逆に、失礼なことになりませんか。 私たちは、不安な思いを誰もが持っています。しかし、不安な気持ちに安易に流されてしまうと、亡き人に対して失礼なことを、遺された人たちを傷つけることをしかねないのです。

 「四十九日法要(満中陰法要)が三月にまたがったらいけない」という話があります。浄土真宗ではそんなことは言いませんが、気にされる方が多くあります。なぜでしょうか。調べてみると、どうも語呂合わせからきているようです。
  [四十九(しじゅうく)]→[始終、苦]
  [三月(みつき)]→[身つき(みつき)]→[身につく]
これらが組み合わされて、「始終(いつも)、苦が身につく」から、やめなさいというわけです。単なる語呂合わせとバカにしてはいけません。葬儀の際に「三月にまたがったらいけない」と言われたら、遺族の人たちには大きな不安やプレッシャーを与えるでしょう。近頃はみんな忙しいですから、三月にまたがらざるを得ない場合があります。そんな時に、たまたま悲しみ事が重なってしまうと、「ほら見ろ。三月にまたがったからだ」という声が出てくる。これが遺族を苦しめるのです。

 「友引の日には葬儀をしない」ということも、同様です。「友引」とは中国の暦のことばで、仏教とは何の関係もありません。それが字面だけをとらえられて、「友達を引っ張っていくから」と恐れ、葬儀をしなくなったのです。でも、考えてみてください。亡くなられた方が、友達を引っ張っていくような人と思っているのですか?そんな受け止め方は、亡き人に対してとても失礼な態度ではないでしょうか。

※ とは言っても、極楽寺では関係のないことだからと無理強いはしていません。悲しみの中におられる遺族に、お寺からもプレッシャーを与えるわけにはいきませんから。但し、「これ以上、他の人を不安にさせたり、傷つけないように、関係ないと理解した上でして下さいね」とお願いをするようにしています。


 人間ですから、誰もが不安な気持ちというものを抱えています。しかし、不安な気持ちに流されてしまった時、私たちは亡き人を見失うのです。遺された方を傷つけてしまい、亡き人を仏様から怨霊や亡霊へと引きずり降ろしてしまうのです。仏様は祟られる方ではありません。
 「亡き人が迷っている」と不安に思うのは、実は「自分が迷っている」からなのです。だからこそ、浄土真宗では、阿弥陀様のみ教えを通して、仏様になられた亡き方と出遇っていくという形をとる。その為に、阿弥陀様を中心にお参りするのです。


 不安な気持ちは、誰もが持っています。しかしその不安を、逆に生きる力にされた、私たちの先輩をご紹介しましょう。金沢のお婆さんで、山崎ヨンさんという方がおられました。障害を持つ子どもさんを抱えながら、女手ひとつで生き抜いてこられたお婆さんです。ご苦労の中にも、阿弥陀様とともに確かな人生を歩まれた方でした。その山崎ヨンさんのところに、ある新興宗教の方が来られて「ばあちゃん不安ないか」と訊ねられたそうです。「ええ、不安ありますよ」というと、その人は「私らその不安をとる会を無料でしとるさけ、ばあちゃんもそこにいって、不安とってもろたらどうや」と言われました。するとヨンさんは、こう答えられたというのです。

 「そうか、ご苦労さんやねえ。不安の世の中でねえ。そやけどこの不安、あんたらにあげてしもうたら、わたしは何を力に生きていったらいいがやろうねえ。不安は私のいのちやもん」
                    (『生命の大地に根を下ろし』松本梶丸)
 
 不安があるからこそ、こんな私でもまことの言葉を聞かずにはおれない。阿弥陀様のみ教えに遇わずにはおれない。不安があるからこそ、今日まで歩まされてきた。不安が私のいのちだ。不安をあんたにあげてしもうたら、人生空しく無駄に生きるだけになる。だからこそ「何を力に生きていったらいいがやろうねえ」と、答えられたのです。

 不安とは、大切なことを見失い、迷いを深めていく私に、今のままでいいのかと私の生き方を問い返してくる力だといただかれた方がおられるのです。私たちが無くそうとする、その不安を、仏様からのうながしといただかれ、生きる力とされた先輩方があるのです。
 ここにこそ、自分の人生を、そして亡き人の人生を、より豊かに尊くいただいていく道があるのだと、教えられるのです。■