2018(平成30)年4月




よくお寺にお参りされる男性が、法座のご講師にこんな質問をされたそうです。

「先生。こんなことを言うと笑われると思いますが、どうしても解らないので教えてください。ご法話の中で、よく「仏様の光に照らされる」とか「光に包まれる」とか言われますが、私にはどこに仏さまの光が届いてくださっているのか、どう包まれているのか解らないのです。太陽や月、電灯の光が照らしてくれている事は解ります。でも、仏さまの光に照らされるということが、わからないのです。」

 真面目な方なのですね。私のようないい加減な者は、そこまで考えることはありません。でも、このように問うてくださる方があるからこそ、考えることができるのです。有り難く、大切な問いかけです。


これは、阿弥陀様のはたらきを、光のはたらきに譬えているのです。では、光にはどんなはたらきがあるのでしょうか。

まず、暗闇に光が差し込むと、辺りの様子が見えてくるように、光には「そのものの姿を明らかにする」というはたらきがあります。
 そして、光には「育てる」というはたらきがあります。植物は、水や肥料があっても、光がなければ育ちません。
 また、日陰に生えている植物は、必ず光の方を向いて伸びていきます。つまり光には、「進むべき方向を明らかにする」はたらきがあるのです。

 

あるサラリーマンの方が夏の日に、バスに乗りました。ところが、そのバスは満員。おまけにあいにくの雨で、車内はムシムシします。しかも、蒸れて臭い。その上、赤ちゃんを抱えたお母さんが乗っておられていて、赤ちゃんが大声で泣くのです。人は多いし、暑いし、蒸れるし、臭いし、赤ちゃんが泣くし、そのサラリーマンの方は「最悪のバスに乗ってしまった」と思ったそうです。

すると、次の停留所が近づいた時、赤ちゃんを抱いたお母さんがバスを降りようとされました。バスの中は、ホッとした空気が流れました。そのサラリーマンの方も、「やれやれ降りてくれる」と安心したそうです。
 その時、バスの運転手さんが、何気なくお母さんに「どこまで行かれるんですか?」とたずねました。
「この子が熱を出して、病院まで行きたいのです」
「えっ?病院って、まだかなり先ですよ。どうして、ここで降りるんですか?」
「いや、この子が泣いて皆さんに迷惑をかけますから」
「でもこんなところじゃ、タクシーもひろえませんよ。歩くつもりですか」
「はい。」
「今、雨が降っていますよ。それに、赤ちゃん熱があるんでしょ」
「でも、皆さんに迷惑をかけるから・・・」
すると運転手さんは、おもむろにマイクをとり、こんなアナウンスをされました。


「皆さん、ここに熱を出した赤ちゃんを抱えたお母さんがおられます。目指す病院は、まだまだ先。でも、赤ちゃんが泣いて迷惑になってしまうと、お母さんはここで降りて歩こうとしています。この辺りではタクシーもひろえません。外は雨です。歩くには、かなりの距離があります。皆さん、どうかしばらくの間、我慢していただけませんか」
 一瞬車内はシーンとなりました。そして…、一人二人とパチパチパチと拍手が起こり、バスが拍手でいっぱいになりました。お母さんは赤ちゃんを抱いたまま泣きはじめました。そのサラリーマンの方も拍手をしながら、こう思ったそうです。「こんなに素晴らしいバスに乗れて、本当に良かった」と。

でも考えてみれば、状況はまったく変わっていませんよね。人は多いし、暑いし、蒸れるし、臭いし、赤ちゃんは泣くし。それが運転手さんの一言で、「最悪のバスに乗ってしまった」から、「最高のバスに乗れた」という気持ちに変わった。同じ状況でありながら、世界が大きく変わったのです。
 そして同時に、このサラリーマンの方は思われたのではないでしょうか。「僕は、お母さんがバスを降りようとした時に、「やれやれ良かった」と思ってしまった。もし、運転手さんの一言がなかったら、お母さんは雨の中長い道のりを、熱を出した赤ちゃんを抱えたまま、歩いていかなくてはならなかった。そうさせようとしたのは、僕たちだった」と。
 バスに乗っておられた人たちには、運転手さんは光輝いて見えたと思います。そして、お母さんには、運転手さんだけではない、拍手した乗客の皆さんも光輝いて見えたと思います。
 光に照らされるとは、まさにこういうことを言うのでしょう。気づかなかった大切なことに気づかされた。その大切なことを気づかずに粗末にしていた、足蹴にしていた自分の姿に気づかされた。そして進むべき方向が明らかになった。その方向へと一歩踏み出した時、その人もまた光輝く存在となったのです。


親鸞聖人は「源空光明はなたしめ」と言われています。源空とは、親鸞聖人の師匠、法然聖人のことです。それは、法然聖人が、ピカッと光っていたわけではありません。法然聖人の言葉や生き様を通して、育てられ、導かれ、進むべき方向が明らかになった時に、親鸞聖人にとって法然聖人は光輝く存在に見えたのでしょう。そして、私たちの先輩も、親鸞聖人の言葉や生き様に触れて、親鸞聖人が光輝くように見えた。その法然聖人、親鸞聖人を輝かしめたのは、まさに阿弥陀様の光でした。

阿弥陀様の光に照らされ、導かれ、育てられた方がある。その先輩方の歩みがまた輝きとなり、長い歴史を通して、私のところにまで届けられているのです。「あなたもすでに、その光に包まれていることに気づいてください」という、願いと共に。■