2018(平成30)年5月




「誤発進抑制装置」というものを、ご存知でしょうか。
 昔は、自動車といえばミッション車がほとんどでしたから、クラッチを踏み、ギアを入れ替えて、アクセルを踏むという手順を踏まなくてはなりませんでした。しかし現在は、オートマチック車がほとんどですから、自動でギアチェンジされ、アクセルを踏めば走るようになっています。

とても便利ではありますが、ブレーキを踏んだつもりで、誤ってアクセルを踏んでしまうと大変です。店に突っ込んだり、時には歩道を歩く人に突っ込んだりと、大きな事故が相次いで発生しています。そんな誤発進を防ぐために、障害物をセンサーで感知し、衝突を防ぐ機能が、各メーカーで開発されている。それが「誤発進抑制装置」です。

アクセルを踏むだけで、車は走る。科学技術の進歩によって簡単で便利になりました。小さな労力で、大きな結果を得ることができるようになりました。ところが、肝心の人間が追い付いていないために、小さな間違いが、大きな事故につながるようになってしまいました。その対策のために、「抑制装置」なるものが作られているのです。

この事実は、私たちにとても大切なことを突きつけているのではないでしょうか。人間にとって便利なアクセルよりも、それを抑制するブレーキの方がより大切なのだということを。

 

近頃は、いろんな意見を主張できる時代になりました。同時に、軽い気持ちで言った一言が、大きな影響力を持つ時代になりました。様々な意見が主張でき、それを尊重する社会は、風通しが良く、生きやすいはず。しかし現実はというと、社会全体が委縮し、何かに脅え、生きづらくなっているように感じます。なぜなのでしょうか。

先日、『人志松本のすべらない話』というテレビ番組で、お笑い芸人の千原ジュニアさんが、はとバスツアーに参加した話をしておられました。

東京・新宿から出発し、都外のお寺を巡るコースです。バスガイドさんが、まず最初に注意事項を確認します。

「朝早い出発ですから、お休みになられるお客さまもございますので、
 会話の方はなるべく小さな声でお願いします。そして…」


「リクライニングシートを倒される際には、後ろのお客様に一声かけてから
 お願いします。そして…」


「テーブルは滑りやすい素材ですので、携帯電話など置かれますと
 カーブで落ちる恐れがあります。お気をつけ下さい。そして…」

「テーブルには穴が開いておりますが、これは紙コップ専用ですので、
 ペットボトルは入りません。そして…」

「どうしてもペットボトルを置かれたい時には、逆さにされれば入ります。
 しかし、必ずキャップのフタをしっかりお締めください。そして…」

「そして…」

「そして…」

「そして…」

気がつけば、すでに都内を過ぎ、隣の埼玉県に入っていたというのです。

それだけ様々な意見を汲み取らなくてはならない時代なのです。小さな事柄であっても、おかしいと思っても、意見があれば対応しなくてはならない。それが、軽い気持ちや自分勝手な思いの一言だとしても。

いろんな意見を主張できる時代になったということは、同時に、その一言が大きな影響力を持つようになったということです。ところが、影響力を自覚しないままに、軽い言葉が飛び交ってはいないでしょうか。そんな言葉が、世の中を委縮させ、脅えさせ、だからこそ生きづらい時代にしてしまったのではないでしょうか。

ほんの小さなの踏み間違いが大きな事故につながるように、ほんの軽い一言が大きな悪影響を及ぼしていく。私たちは、こんな時代に生きているのです。生きづらいはずです。

 

親鸞聖人が「日本のお釈迦様」として尊敬され、道しるべとされた聖徳太子は、

「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。
 共にこれ凡夫ならくのみ」(『憲法十七条』)


と記されています。私がいつも正しいわけではなく、相手がいつも間違っているわけではない。完璧な人間など、どこにもいない。みな共に、ただの人間でしかないのだと。

考えてみれば、当たり前のことです。当り前だとすると、もう少し自らを振り返ったり、相手に対して寛容になっても良さそうなものです。ところが、私自身のことを考えても、なかなかそうはいきません。一時の感情で、怒り、相手を裁き、切り捨てています。約一四〇〇年前に書かれたごく当たり前のことが、未だにできていない。人間の本質は、いつの時代になっても変わらないのでしょう。にも関わらず、周囲の環境はどんどん発達し、アクセルを踏むだけで車が走るように、軽い一言が大きな悪影響を与えてしまうようになってしまいました。「共に凡夫」であるからこそ、ブレーキが大切であるはずなのに。

聖徳太子は、
「それ三宝にりまつらずは、
 なにをもつてか枉(まが)
れるを直(ただ)さん」(『憲法十七条』)

とも言われています。三宝とは、仏・法・僧(僧伽:教えをよりどころに生きる人々の集まり)のことです。仏様を仰ぎ、教えを聞き、その教えに生きる仲間を通して、自分を見つめることがなかったら、我執にとらわれたよこしまな心は直すことはできないのだと。

仏法をよりどころにしながら、できるだけ手順を追って、丁寧に言葉を紡いでいく。そんな営みを、私はしていこうと思います。気をつけても間違う私なのです。せめて自覚的にならなくては、人生までも誤発進してしまいそうで。私の軽々しい発言を抑える「抑制装置」など、ないのですから。

約一四〇〇年前の人の言葉が、現代社会に生きる私に、自らの生き方を見つめ直すことの大切さを、突きつけてくださっています。■