2018(平成30)年6月




以前、高校の同窓会に出席した時のことです。30年ぶりに会った友人が、トイレやお風呂やシンクを開発・販売する一流企業に勤めていることを聞きました。

そこで彼に、こんな質問をしたのです。「近頃の最新式トイレは、前に立つと自動でフタが開き、立ち上がると自動で流れるようになっているけれども、あの機能は要るのか」と。すると彼は、「オレも要らないと思うんだけれども、フタが汚いから触りたくないというニーズがある。だから、仕方がないんだ」と言うのです。そして自動で流れる機能が開発された理由も、便利だからということだけではないようです。トイレでは、稀に前の人の流し残しに出会うことがありますが、「それが不快で耐えられない」という声が多くあったからなのだとか。

しかし、自分も汚いものを抱えていますし、出してもいるわけです。何より無菌状態では、動植物であれ、人間であれ、弱々しくしか成長できません。納得がいかない顔の私に、彼は言いました。「自動でフタが開くトイレで育った子どもはな、小学生になって学校のトイレに行ったら、フタが開くのをジ―ッと待っているらしいぞ…」。

それを聞いて、私は呆然としました。トイレのフタが自動で開く機能は、一日、二日で作ることはできません。長年の研究の積み重ねで、ようやく出来上がったものです。そこには、多くの人たちの苦悩と、汗と、涙と、そして残業時間が込められています。それだけの営みと歴史があって、ようやくトイレのフタは自動で開くのです。それを、「当り前」としか感じられない子どもが育つ社会になっているとしたら、恐ろしいことだと思いませんか。

「当たり前」だと思っている時には、どんなに素晴らしいものをいただいても、どんなに整えられた環境を用意されても、喜びも感動もありません。それが「当たり前」なのですから。それでは感謝の心も、満たされた思いも起ることはないでしょう。

この話を、ある後輩に話した時のこと。彼の家も、自動でフタが開き、自動で流れる最新式のトイレなのだそうですが、彼も「あのトイレは、本当に良くありませんね」と言うのです。なぜなら、流すことを自動機能に頼ってしまうと、外でトイレを使うときに、ついつい流し忘れるようになってしまうから。そして近頃は、流し残しに出会うことも多くなったからだそうです。

つまり、「当たり前」の中で生活をしていると、自分がされて一番嫌なことを他者にする人間になるということなのでしょう。そして、嫌なことをしていることに、気づくこともない人間に育つということでもあるのでしょう。

 

波北彰真さんという方は、「よろこびの真ん中にいてもよろこびに気づく心の眼を持たなければ、よろこびに出あえないままに終わるでしょう」(『人生のほほえみ 中学生はがき通信』波北彰真)と言われています。いくらよろこびに囲まれ、幸せに囲まれていても、「当たり前」と受け止めているなら、うれしさも感動もないのです。そして、その心の眼を育てて下さるのが、阿弥陀様のみ教えであると教えられるのです。

「有難う」とは、有ることが難しいと書きます。今、ここに有ることが、どれだけの営みと歴史の上で成り立っているかということに気づいた時に、初めて「有ることが難しいことが、今ここに有る。有り難いなぁ」と感動と感謝が生まれるのではないでしょうか。

それは、これまで私を支え、生かし、育てて下さった世界との出遇いであり、同時に、その世界に気づきもせず、足蹴にしていた自らの姿に目覚めることでもあるのです。■