2018(平成30)年8月




 音楽は、リラックス効果やストレスや不安の軽減、コミュニケーション能力を養うなど、様々なはたらきを持っています。その力で、心身の障害改善や生活の質の向上を目指していく「音楽療法」という治療方法があります。ホスピスや老人ホームなどでも、死への不安や苦悩を和らげ、安らぎの時を過ごせるようにと取り入れられていますが、そこで圧倒的に多くリクエストされる曲が、兎追いし かの山〜≠ナ始まる『故郷』なのだそうです。

 死を前にして、これまで得たもの、自分を成り立たせていたものを手放さざるを得なくなる。身にまとっていた、お金、地位、仕事、健康、趣味というものが、一つひとつ剥ぎ取られていく。そんな丸裸の人間の事実を突きつけられたとき、思い出されるものがある。一人では何もできない幼き頃、温もりと慈しみの中で育てられた場所。自分の存在が認められ、丸ごと受け止められたところ。「お帰り」と待っていてくれる人がいて、条件無しに抱きしめてくれる人がいる地。そんな「故郷」が、丸裸の自分を突きつけられる中で、恋しく求められるのではないかと考えさせられました。


 作家の柳田邦男さんは、
故郷は心の中に刻まれた「いつか帰るところ」「いつでも帰れるところ」「人生の苦難を一緒に背負ってくれるところ」「心の平安を支えてくれる精神性の大地」という多様な意味が詰まっている。
   (「ふるさと再考 心に刻んだ地…破壊許さない」毎日新聞2017年11月25日)

と指摘されています。「故郷」とは、単に「生まれ育った場所」ということではないのです。この私という存在の原点であり、存在そのものを支えてくださる精神的な大地でもあるのです。


 

2017年『社会を明るくする運動 作文コンテスト』で、法務大臣賞(最優秀賞)を受賞した柴田嘉那子さん(当時小六)は、失敗した日、怒られた日、悩みごとがある日、気持ちが落ち込んだ日に、心にしみる魔法の言葉、それが「お帰り」という言葉だといっています。
 嘉那子さんの両親は、家庭環境に恵まれず、虐待を受け、非行に走り、人間不信、大人不信を持つ少年たちを自立支援する施設の寮の運営を担当していました。彼らは入所前まで、「お帰り」と言われたこともなければ、誕生日も祝ってもらったこともありません。とげとげしい心で、反抗的な生活をし、自分自身と向き合うことから逃げる彼らは、「入所した始めのころ、僕もそうだった」と言ってくれる仲間と出会い、一人ではないと気づき、心の深い闇を払っていきました。
 嘉那子さんがまだお母さんのお腹の中にいるころから、誕生を楽しみに待っていた彼ら。生まれてからも、一日一日の成長の変化に気づいては、喜んでくれたといいます。
「母ちゃんは、弟妹をほったらかしやったから、ぼくがミルクをあげたりおむつを取りかえた」
「ぼくも、こうやって育ててほしかった」
と、優しく見つめながらつぶやく彼らの思いに包まれて、嘉那子さんは大きくなっていきました。そして歩き出せた頃から、寮に帰ってくる彼らを「お帰り」とむかえるようになったのです。その一言が、彼らの眼や心を輝かせ、やわらかくしたと言います。
 そのうち、彼らはそれぞれ社会に出て行くことになりました。そして、連絡してくる回数も、次第に減っていきました。嘉那子さんはこう書いています。

 お兄ちゃんたちの「現在」がとても心配です。退所したお兄ちゃんたちみんなに、「おかえり」と言葉 をかけてくれるよき理解者がいるのだろうか。安心・安全な居場所を、現在、もてているのだろうか。(『大切な魔法の言葉』柴田嘉那子)


 やはり、私たちが生きていくには、帰る場所が必要なのです。無条件で受け止められ、「お帰り」と待ってくれる人がいなければ、孤独感、不信感の中で生きなくてはなりません。とげとげしい心で、反抗的な生活をし、自分自身と向き合うことから逃げるしかありません。また私たちには、たとえ社会的な地位を築いても、お金を稼いでも、それらはいずれ手放さざるを得ない現実が待っています。
 しかし、待っていてくれる人がいるから、丸裸の私を受け入れてくれる場所があるから、心が安らぎ、苦難にも向き合うことができるのでしょう。だからこそ「お帰り」という言葉が、人の眼や心を輝かせ、やわらかくする魔法の言葉になるのです。

 

 安田理深という先生は、阿弥陀様の国・浄土を「存在の故郷」と言われています。この世のいのち尽きた時、阿弥陀様の本願力によって生まれさせていただくお浄土の世界。それは、この私を無条件で、丸ごと受け止めてくださる世界です。そして、先に往かれた方が「お帰り」と、待っていてくださる世界でもあります。人間である時は、すれ違い、仲違いがあっても、今度は仏様として出遇い直せる世界です。



 弁護士で元大阪市助役の大平光代さんは、釈徹宗先生との共著『歎異抄はじめました』で、

お浄土に往くというのは、自分が帰る場所があるということですよね。現実に帰るのは今すぐでなくても、帰る場所があるというだけで、現世を安心して生きられるのではないでしょうか。/養護施設で育った子どもたちに帰る場所をつくる活動をしていた方とお話する機会がありました。帰る場所があるだけで社会に出てもがんばれる。帰る場所がないと根なし草みたいになって誘惑に負けやすいと/おっしゃっておられました。私たちにとっても心の帰る場所はとても大事で、お浄土があると思えば苦しい現世を生きられるのではないでしょうか。

と言われています。帰っていく世界、お浄土があるからこそ、私たちはこの苦難の人生と向き合い、精一杯生き切ることができるのだと。

 つまりお浄土とは、死後の世界の話ではないのです。「存在の故郷」「いのちの故郷」として、生と死を超えてこの私の人生を支え、輝かせるために、はたらき続けてくださる世界なのです。

 


 私たちには、「いのちの故郷」がある。存在そのものを受け止めてくださる精神的な大地がある。そのことを、人生を通して教えてくださった方々の歴史が、今私のところに至り届いている。この有り難さ、尊さを、しっかりといただかなくてはなりません。■