2019(平成31)年1月





  私が福岡の本願寺教務所を辞めて、極楽寺に帰ってきて、早いもので十五年目となりました。帰ってきたときには小学校入学前だった長男も、先日成人を迎えました。

さて、福岡から引っ越した時のことです。もちろん業者さんにお願いしましたが、さすがにプロですね。手際良く、重い荷物も軽々と運んでいきます。休憩時間に「よくもまあ、あの重い荷物を運べますね」と声をかけると、「いくら力があってもダメなんですよ。重心をどこに置くかが大切なんです」と言われました。とても面白い話を聞いたと、十五年後の今でも印象に残っています。

何度倒しても、ころんでも、起き上がる「おきあがりこぼし」という玩具がありますが、それは重りを本体中心下部に入れるという仕組みになっています。頭部に重心があると、倒れっぱなしで起き上がることができません。これは、私たちの人生にも通じるのではないでしょうか。生きる重心をどこに置くのかによって、生き方も、見える景色も全く変わってくることでしょう。頭だけで考えてしまうと、安易に「俺の人生は、もう終わりだ…」と、起き上がれなくなったりもします。

 

私が学生の頃、『VOW』(宝島社発行)という雑誌が、流行りました。街で見つけたヘンなもの(看板・道路標識の誤字や変わった名前の会社・店等)≠フ写真を投稿し、皆で笑おうという企画の雑誌です。その本に、あるお寺の掲示板の写真が掲載されました。そこには法語として、こんな言葉が紹介されていたのです。

「ああ、思い通りにならなくて、本当によかった」

普通の感覚からしたら、おかしな言葉です。一般的には、「思いどおりになりますように」とお願いするのが宗教だと思われていますから。だからこそ、街で見つけたヘンなもの≠ニして、雑誌に取り上げられたのでしょう。

しかし、これは間違いではないのです。この言葉は、癌を患い47歳で往生された、鈴木章子さんという真宗大谷派(東本願寺)の坊守さんの言葉です。鈴木章子さんは告知されてからの人生を、まさに仏法に包まれて生きられた方でした。

 人間は死ぬのだという誰でも知っている事実を、頭だけで理解していた。そんなうぬぼれを、癌が砕いてくれたと、鈴木さんは語られています。そのことで、当たり前だと思っていたことの不思議さを、多くのものを恵まれていたことを知らされた。今この出遇いの尊さを、教えられた。気づかずに過ぎてしまっていたことに、気づかされた。鈴木さんの詩には、思い通りにならなかったことで、初めて気づかされた景色が描かれています。

 

 肺がんになって ここ あそこから
 如来様の説法が 少しづつ きこえてきます
 今現在説法 真只中でございます(『癌告知のあとで』 鈴木章子)

 

「今現在説法」とは、『阿弥陀経』の一節で「今、現にましまして説法したまう」という意味です。これまで、知識として受け取っていた仏法が、今まさに、私のために説かれた教えだったといただけた。仏様が、今ここにましまして語りかけられている。そんな言葉として聞こえてきたと。

 もちろん、簡単に受け入れられたものではありません。その裏には、深い悲しみと苦悩がある。それを通して、なお語られる言葉だからこそ、重く尊いものだと思います。

 

 あーあ 思いどおりにならなくて ほんとうに よかった
 こんな汚い根性で 思い通りになっていたら
 何人 人を殺したやら…
 何人 敵をつくったやら…/     (『癌告知のあとで』 鈴木章子)

 

「思いどおりになりますように」というところに重心がある時に、思い通りにならない現実を突きつけられると、「神も仏もあるものか」と誰かに責任を押しつけてしまいかねません。「俺の人生もう終わりだ」と投げ出してしまうかもしれません。

 しかし、「思いどおりにならないのが人生だ」と仏法は教えてくださるのです。生きることも、老いることも、病むことも、死ぬことも、思いどおりにはならない(生老病死)。愛する人と別れなくてはならない(愛別離苦)し、嫌なヤツにも会わなくてはなりません(怨憎会苦)。欲しいものは手に入らない(求不得苦)。心や身体に執着することで苦しみが起こります(五蘊盛苦)。思いどおりになるものだというところに、苦しみや迷いがあるのです。思いどおりにならない人生を、どうすれば尊いものにしていくことができるか。それが仏法のテーマだと言えるでしょう。

 鈴木章子さんは、仏法を通して、思いどおりにならない人生を受け入れられました。そこに重心が定まった時に「このご縁によって、本当に大切なことが知らされた」と、まさしく「おきあがりこぼし」のように、何度も起き上がる人生を示してくださいました。

重心が変わる。ものの見方が変わる。これを仏教では、回心といいます。そこから、癌という重い事実を、受け止めていく人生が開かれていったのです。それは、特別な凄い力が備わるのではありません。鈴木さんも、「私は強い人間ではない」と言われています。ただ、重心が変わるだけ。ただ、気づくだけなのです。

 

 思い通りにならない人生を、慶びと尊さの中で生き抜かれた方がある。そんな方が、私の前を歩んでくださっているからこそ、私たちも思いどおりにならない人生を、私のものとしていただくことができるのでしょう。有り難いことです。■