2019(令和元)年10月


 

「私、失敗しないので」
 この言葉は、米倉涼子さん主演の人気ドラマ『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』の決め台詞です。誰しも、こう言い切ってみたいものですが、なかなかそうはいきません。してはいけないと思いつつも、ついつい失敗してしまいます。誰もが、好きで失敗するわけではないのですが。

             

 そんなあなたに朗報です!(ここは、テレビ通販番組風に読んでください)「失敗をしない方法」というものがあるのです。しかも二つも。今や、様々な場で使われている方法です。
 一つめの方法、それは…「何もしない」ことです。人間である限り失敗はつきもの。ドラマの主人公のようにはいきません。ならば、失敗したくなければ「何もしない」が一番。余計な事には手を出さない。必要最小限のことしかやらない。実際に、そんな消極的な態度は至る所で見かけます。

 最近、ビジネスや行政の現場で、「PDCAサイクル」という手法が定着しています。
  @ P Plan=計画  目標を設定し、計画を立てる。
  A D Do = 実行  計画に基づいて、実行する。
  B C Check=評価 計画に沿って実行できていたかを、チェックし、
             評価する。
  C A Action=改善 評価結果から見えてきた課題を、改善する。
という四つの段階を繰り返すことによって、業務を円滑に進める手法の一つです。ところが、サッカーJリーグの村井満チェアマン(理事長)は、この「PDCAサイクル」の真ん中にMを入れた、「PDMCAサイクル」を推奨されています。
 
 Mとは、Miss=失敗です。プレーする限りミスは起こる。それが、サッカーの本質ではないか。つまり失敗がないということはプレーに絡んでいない、つまりチャレンジしていないことでもある。だから、「積極的にミスをしていこう。それがチャレンジしているということでもあるのだ」という考え方です。
 これはサッカーに限らず、人間の本質でもあるのでしょう。どんなに周到な準備をしても、人間である限り失敗はつきもの。それが許されなかったら、新しいチャレンジはできません。


             


やらない理由を探すのがうまくなると、成長は止まる
これは、リクルートキャリアという会社の広告コピーです。そういえば、村井チェアマンは元リクルートの代表取締役社長。何かつながっているような気がします。



 以前、東京海上日動火災という保険会社の広告には、こんなコピーがありました。
「失敗したらダメ」「失敗しても大丈夫」
       人はどちらの方ががんばれるのだろう
失敗をこわがる社会。何度でも挑戦できる社会。
       私たちの国は、今どちら側だろう

 皆さんは、どうですか。「絶対に失敗するな」と言われるのと、「失敗しても大丈夫だから、精一杯やれ!」と背中を押してもらえるのと、どちらががんばれますか。大抵の人は、迷わず「失敗しても大丈夫」と背中を押してもらえる方だと答えるでしょう。
 しかし現実はというと、「失敗をこわがる社会」になってはいないでしょうか。失敗をすれば、これでもかと叩かれる。斬り捨てられる。それは、「過ちの指摘」というレベルを超えて、「存在の否定」につながりかねないほどの勢いで。だから、必要最小限のことしかやらない。挑戦なんかしない。そんな、委縮し閉じた社会になっているように思うのです。

 ところが、いくら最小限の仕事でも、人間である限り失敗はつきもの。そこで、もう一つの「失敗しない方法」というものが出てきます。それは、「失敗を認めない」ということです。言い逃れる為に「誤魔化し」や「責任転嫁」が行われます。まさに、失敗を許さない社会が、失敗を報告しない組織を作るのでしょう。
 ただ、傷が浅いうちなら言い訳、言い逃れもできるかもしれませんが、傷が深くなってしまうと取り返しがつきません。企業の謝罪会見には、そんな状況に陥った事例がいくらでも見受けられます。


 謝罪会見では、「責任の所在」が強く問われます。以前は、無責任な行動に対して批判的に使われていた言葉です。しかし、今や違う目的のために使われています。それは、「責任を押しつけるため」に。

 近頃、「責任者は誰なのでしょうか」という声を挙げる人のほとんどは、「私は責任を取りたくない」という思いから、誰かに「責任を押しつける」ために、この言葉を発しています。昔は「お互いさま」と責任を取り合っていましたが、今や、押しつけ合う時代になりました。すべての始まりは、「失敗してはいけない」という考え方からなのかもしれません。

 思想家で武道家の内田樹先生は、
「責任者を出せ」ということばづかいをする人間はその発語の瞬間に、その出来事を説明する重要なひとつの可能性を脳裏から消している/それは「もし、この件について自分にも責任があるとしたら、それは何か」という問いへむかう可能性である。/「責任を取る」というのは、端的に言えば、「失敗から学ぶ」ということである。「責任を取らせる」というのは、「失敗から学ばない」ということである。
                (「責任を取る」という生き方『内田樹の研究室』)
と言われています。失敗から学ぶからこそ、対応能力も上がり、引き出しも増える。思いもよらない気づきや、出遇いも生まれることでしょう。何より、失敗の活かし方を学ぶことができれば、それは次第に大切な経験へと変わっていくのです。





 ドラマの主人公のように、「私、失敗しないので」と言い切りたい。
 誰もがそんな思いを持っています。しかしその枠組みに捉われてしまうと、失敗を恐れ、委縮や誤魔化しの連鎖を生み、苦しみは深まるばかり。この悪循環は、仏教でいうところの「迷いの境界」そのものです。自分の力で、この枠組みから抜け出すことは容易ではありません。何より、捉われに気づくことさえ難しいのですから。
 そんな「捉われの生き方しかできない私である」という自覚のもとに、枠組みの外からの呼びかけ、阿弥陀如来の呼び声を聞き、応えていく道を歩まれたのが親鸞聖人という方でした。
  親鸞聖人は「愚禿」と名のり、「悪人」の自覚を持ち続け一生を歩まれました。それは自分を卑下し、否定する生き方ではありません。「愚かでも、失敗をしても、私の人生はここにしかないのだ」と、現実を受け入れ、学び、聞こうとしていく姿です。その歩みが、新たな、そして豊かな世界との出遇いを開くのだと教えられるのです。■